2006年1月22日日曜日

雪の梨沢


木更津教会のミサが11時過ぎに終わってから、梨沢へ向う。
梨沢は千葉県内における唯一の沢登りの対象となるものである。特に1月は遡行後の稜線一帯に水仙が咲き、それは素晴らしいと聞く。

昨年の2月下旬に長女と遡行してその素晴らしさを堪能したが、残念ながら水仙の開花時期は終わっていた。
今年こそはと期待していたがあいにくの大雪である。
それでもひょっとしてと思いながら妻と二人で遡行した。

雪に覆われた梨沢は、南房総の谷とは思えぬほどの景観で、楽しい一日を過ごすことが出来た。

大雪




土曜日から降り始めた雪は、日曜日の夜半まで降り続き、数十年ぶりの大雪となった。

私が小学校5年生の時の2月か3月にものすごい雪が降ったことを思い出した。そのときには三日間降り続き、腰まで雪に埋もれたことを思い出す。

2006年1月15日日曜日

年間第二主日


ミサ曲は典207から210
入祭・・・キリストはぶどうの木
第一朗読(旧約書朗読)・・・サムエル記(サムエル上3.3b-10,19)
答唱詩編・・・典54
第二朗読(使徒書朗読)・・・使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント6.13C-15a,17-20)
アレルヤ唱・・・典271
福音朗読・・・ヨハネによる福音(ヨハネ1.41+17b)
奉納・・・典98
拝領・・・典156,イエスよ み国に(テゼ)
閉祭・・・こころをひらき

クリスマスの装いは先週まで、通常のミサが四旬節までつづく。

2006年1月14日土曜日

サムエル記の朗読練習


カトリック西千葉教会の明日の年間第二主日のミサで長女が第一朗読をする予定なので、その練習をする。
朗読箇所は旧約聖書サムエル記(サムエル上3.3b-10,19)
「主よお話ください。僕(しもべ)は聞いております」

最後に、私が司祭の役をしながら楽しく答唱詩編、アレルヤ唱などを歌った。
福音朗読部分は、私が幸田司教を手本にして読んだ。

ふと気がつくと時計は22時を回っており、一時間以上が経過していた。

オリエンタルカレー、オオ懐かしい

今日は、昼前から本格的な雨になって気温も高い。
梨沢を遡って水仙のお花畑を見に行こうと思っていたが、あきらめた。

先週、市長の高橋操とプライベートで呑んだ時に佐倉に出来たベイシアの話題が出た。高橋も行ったという。
夕方になって、母と妻の三人で見物に行った。

山で使える食料を探す楽しみがあって、スーパーマーケットの食料品売り場へ行くのは嫌いではない。今日もベイシアの食料品売り場の棚を一つ一つ見ていたら、懐かしい商品があった。

オリエンタルカレー

最近まったく見なくなったが、私が小学生だった頃には盛んにCMをテレビに流していた。
とても感動して、写真に撮った。

2006年1月13日金曜日

札幌は大雪




札幌へ出張していた。
雪が多く、気温も-6.3度。

勤務先のCさんとMさんと三人での札幌出張。
寒さで耳がちぎれるように痛い。

帰りの千歳空港でラーメンを食べる。
旭川ラーメンの「特一番」の醤油ラーメンを食したが、スープが抜群にうまい。
MさんはANA13:00の便で仙台へ、Cさんと私はANA13:30の便で東京へ帰った。

2006年1月2日月曜日

冬の雨




雨が降っているが、思い立って妻と臼井城址へいった。

ジョアン原主水はこの臼井城主原胤義の子として生まれた。臼井城は自宅から車で20分程度と近距離にあり城下の道は私にとっては地元の道である。

車がやっと一台走ることの出来る狭い坂道を上っていくとそれはあった。

2006年1月1日日曜日

神の母聖マリア


2006年1月1日 今日は神の母聖マリア

小岩教会の深夜ミサから帰宅して寝たのは3時だったので、起床したのは8時だった。

ワイシャツにネクタイを締めて濃紺のブレザーの上にカシミヤのコートを着て、四街道駅のホームにたった。田甫さんご夫妻と一緒になった。田甫さんは長女の代母であり我が家の子供たち三人ともが、お宅でピアノを習っていた。
道々歩きながら教会の話などしながら西千葉教会へとむかった。
小林神父による説教はローマ教皇ベネディクト16世の新年メッセージだった。その内容は人類の未来に対するものだった。
私は福音をきいた思いがした。

帰りがけに四街道駅のロータリーにある句碑が目にとまった。正岡子規の句である。

「棒杭や、四街道の冬木立」

42年ぶりに訪れるカトリック小岩教会




2006年元旦はカトリック小岩教会でむかえた。

私の家族は昭和33年(1958)の一月に大分から出てきた。住んだのは中目黒。教会は碑文谷教会へ行っていたというが、私の記憶にはまったく残っていない。
その後、一度中津へ帰り、改めて東京へ出てきたのが昭和35年(1960)だった。住んだのは小岩の鹿本小学校近くの長屋。最も近い教会はカトリック小岩教会だった。そのカトリック小岩教会に幼稚園が併設されていた。私は昭和36年にこのレジナ幼稚園に入園した。そして鹿本小学校へ入学し、初聖体を受けた。
この頃は食事の前に必ずお祈りをしていたし、寝る前にもお祈りをしていた。この頃の祈りはすべて文語文だったから、意味はわからなかったが、呪文のように覚えたのである。近年口語体に改められた祈りは、覚えることが出来ていないが、文語体による使徒信条、主祷文、天使祝詞は今でもよどみなくいつでも唱えることが出来る。
そんな小岩教会の司祭は青山神父だった。

ある日のミサで、私はなんともウキウキしてきて「おてもやん」を大声で歌ってしまったのである。当時は女性と男性ではミサで座る場所が分かれていた。私は父と並んで座っていた。
ミサが終わると「おてもやん」を歌うことをやめさせなかった父に母は文句を言っていた。そうしたところ青山神父がやってきてニコニコしながら私の頭をなで「元気が良かったね」といった。

日曜学校に通ったり、ミサ使えをしたのも小岩教会だった。

昭和39年(1964)、私達家族は四街道へ引越し、カトリック西千葉教会へ転入した。

その小岩教会へ妻と息子の三人で行くことにした。場所ははっきりと覚えていた。迷わずにまっすぐ行くことが出来た。
御聖堂とマリア像は昔のままだった。
レジナ幼稚園児であった頃、帰りには必ずマリア像のところまで行って、手を合わせるように指導されていた。
そのマリア像がそのまま残っていた。
おてもやんを歌った御聖堂も内装は変化していたが告解部屋もそのままだった。深夜零時のミサにもかかわらず多くの信者が集まっていた。
まさに42年ぶりの小岩教会でのミサだった。