2014年9月14日日曜日

息子と登った30年ぶりの一ノ倉沢


息子と二人でおよそ30年ぶりに一ノ倉沢を登った
なぜ30年も登っていなかったのかと不思議に思う人もいるかもしれない
このあたりの事情を知るクライマーも少なくなった。リアルタイムでこの時代を生きたクライマーとして事情を簡単に解説しておきたい

1970年代末の日本の登攀界は、行き着くところまで行っていた
蒼氷の雄山忠氏らにより例えば奥鐘山正面壁のOCC、広島、京都などが4時間から5時間で登られるようになり、一日で2本継続までも行われるようになった
一ノ倉沢でも衝立、烏帽子奥壁、滝沢第三スラブの三本継続がワンデイされるようになった
それは冬期にまで及び、「岩と雪」のクロニクルを賑わしていた
そんな中で1978年12月1日今野和義氏が冬の衝立で単独登攀中に墜死したのである
今野氏は高見和成氏や近藤邦彦氏らと並ぶ当時の日本登攀界の巨人だった
伝え聞くところによればロープによるビレイをしないで登っていたという
まともなビレイによる時間ロスを回避した結果だったのだろうと推測する
つまり、そのようなことが行われるほど日本の登攀界は閉塞状態だったのではないか



そこへヨセミテ サニーサイド キャンプ4を震源地とするフリークライミングという大津波が私たちを襲った
行き着くところまで行っていた日本の登攀界がクライミングの突破口をフリークライミングに求めたのは必然だった
方向性としてはすでに見えていたところへ、伝説化されたとも言えるジョンバーカーの「岩と雪」上でミッドナイトライトニングの連続ショットが紹介された
クライマーは一斉にフリークライミングに走った

一方でついて行けない人々もいたが、それを皆でボンボリーズとさげすんだ
私自身も少なからず同じように思っていたし、「岩と雪」誌上でも「顰蹙買います」という連載でジャック中根氏が面白おかしく揶揄した

結果としてⅣ級A0に代表される従来の山岳クライミングエリアから人が消えたのである
その象徴が一ノ倉沢だった

さて30年ぶりに一ノ倉沢を登ってどうだったのか
入門者を中心としてだいぶ人が戻りつつあるようだ
入門者なので登られるのは南稜、中央稜、烏帽子中央カンテ、衝立ダイレクトカンテあたりがおもだったところで衝立のA字や南稜フランケあるいは滝沢スラブにクライマーを見ることは出来なかった
実力者は海金剛や瑞墻山などのマルチに行っているのだと思う


オンラインアルバムはこちら
https://opa.cig2.imagegateway.net/s/cp/DVvmkdsPi8U

ちなみに息子が小学校6年生の時に屏風岩東壁雲稜ルートを登った頃の様子と比べると、思わず微笑んでしまう
https://opa.cig2.imagegateway.net/s/cp/HANk7wUTdPx



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