二年ぶりに上陸したという台風18号
296万人に影響がでたというニュースが流れましたが、その中の一人が私でした。
いつもの通り四街道発5時20分の電車に乗り、普段と変わらず6時23分に品川到着。10分後にオフィスに入りました。
今日は大田区の下丸子という私鉄沿線の田舎町で会議でした。通常下丸子のオフィスまで品川から40分なので、倍の80分を見込んで7時50分に品川の事務所を出ました。
とこが、品川へ出てみると京浜東北線は止まったまま。しばらく待っていたところ首都圏のJRはすべて運行停止のアナウンス。
仕方がないので京急でひとまず蒲田まで行こうということで京急へ。
結局二時間近く費やして9時40分に下丸子のオフィスに到着。同僚のM君到着したのは13時でした。
三連休は長女の敦子と奥只見に行くぞ!
それにしてもJR東日本のこのポスター。
説明文には次のようにあります。
「明らかにはじめての地だという感覚。海外のような開放感さえあるが、紛れもなく日本だ。奥只見湖の西、銀山平は越後駒ヶ岳を背に黄金色に輝き秘境の雰囲気を増幅させる。誰かに教えたい気もするが、秘密にもしておきたい。そんな光景との出会いだった。」
ほれぼれとします。
先月、そして今月と二カ月連続で奥只見に行こうという気にさせてくれたのはこのポスターの影響大いなるところがあります
2009年10月8日木曜日
2009年6月23日火曜日
吾妻連峰 東大巓
リハビリ山行を続けています。
この土日は骨折後、初めて山で泊まるというプランで敦子と朋子と妻の4人でのんびり登ってきました。
目指した山は東大巓
東大巓ってどこ?というか何て読むの?と思う人も少なくないでしょう。
ヒガシダイテンと読みます。
福島県と山形県の県境にある吾妻連峰の山です。一度37年前に登り損ねていたこともあり、また途中にある弥兵衛平小屋(明月荘)に魅かれ行ってきました。
良い山でした。それに滑川温泉も良かった。
写真は「乙女ゆり」あるいは「ひめさゆり」と呼ばれる絶滅が危惧されている花です。
38年間にわたって山に登り続けていて初めて「ひめさゆり」を見ました。
東大巓
2009年6月8日月曜日
2009年5月21日木曜日
ライブコンサート
日本山岳協会の常任委員をしていた頃、岸記念体育館内の日山協の事務所へ行くために仕事が終わってから原宿のホームに降り立ったものだった。
昨夜、その原宿に妻と二人で降り立った。
何のために?
それはポルノグラフィティのライブを観にいくためである。
なぜ・・・
それは敦子が行こうと買い求めたチケットだったけれど、肝心の敦子が夜勤でいけなくなって、チケットがもったいないからと妻と二人で来たのだった。
マスコミを通じてライブのさまは間接的に知っていたが実物を体験するのは初めてである。もちろん地下の小さなライブハウスでジャズを聴くといったことはあるにはあったが・・・。
妻と二人で席につき、開演を待った。
定刻をいくらか遅れたころ、突然照明が消えた。
その瞬間、数千人の観客がギャーっと叫んだ。そして赤い照明が点滅し難聴になるような大音響が響きはじめた。
すると観客は全員立ち上がった。座っていた私からは何も見えなくなった。周囲の観衆は一斉に踊り始めた。
ものすごい音響と観客の熱狂。会場の隅々までまるで振付があるかのように規則ただしく手を振り、タオルを振る。
ライブの主役はステージの演者ではなく観衆である。
私は心底そう思い、歴史の時間に学習した幕末のある出来事を思った。
これはまさに21世紀の「ええじゃないか」ではないかと。
2009年5月19日火曜日
2009年4月4日土曜日
山桜
ソメイヨシノよりも山桜が良い。
山桜の薄いえんじ色の葉と花の配置が日本画を思わせる。
この一週間を振り返ってみたい。
3月30日月曜日
事故後初めて出張をした。日帰りの大阪往復だった。帰りの新幹線で宝塚音楽学校の生徒と席が隣同士だった。
3月31日火曜日
全日休で左足のエックス線撮影。ようやく骨がつながりつつあるようだ。
4月1日水曜日
半休をとってリハビリ。左足での片足立ちができない。
4月2日木曜日
仕事で厚木へ行った。千葉では朝方まで冷たい雨が降っていた。9時に本厚木駅へ降り立ち丹沢の山を見て驚いた。
まっ白。
昨夜から今朝がたまでの冷たい雨が丹沢では雪だったようだ。
4月3日金曜日
朝から忙しかった。午後になって下丸子へ行ったが、道々の桜が満開であった。
4月4日土曜日
仕事がたまっているので出勤しようかとも思ったが起きられなかった。午後から妻と買い物に出かけ食事をする。帰宅してから母と薪ストーブで遊んだ。
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骨折奮闘記
2009年3月18日水曜日
2009年2月15日日曜日
装具なしの外出
今日は、足の具合もだいぶ良く、装具なしで松葉杖一本で外出しました。
仕事がだいぶ溜まっていたので、近くの公民館の会議室を借りるkとにしました。長男の素直に声をかけて一緒に勉強しようと出かけました。
ところが・・・、素直は勉強道具を一切持っていないのでした。
聞くと「学校に置きっぱなし」とのこと。
私はあきれました。しかたがないので、電子辞書に内蔵されている問題集をすることにして公民館へ行きました。
公民館の会議室で4時間ほどすごし、それから買い物に行きかえりました。
昨日は6月の陽気で、今日も4月の陽気でした。明日は冷え込むそうですね。
風邪をひかぬようお互いに気をつけましょう。
仕事がだいぶ溜まっていたので、近くの公民館の会議室を借りるkとにしました。長男の素直に声をかけて一緒に勉強しようと出かけました。
ところが・・・、素直は勉強道具を一切持っていないのでした。
聞くと「学校に置きっぱなし」とのこと。
私はあきれました。しかたがないので、電子辞書に内蔵されている問題集をすることにして公民館へ行きました。
公民館の会議室で4時間ほどすごし、それから買い物に行きかえりました。
昨日は6月の陽気で、今日も4月の陽気でした。明日は冷え込むそうですね。
風邪をひかぬようお互いに気をつけましょう。
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2009年2月11日水曜日
2009年2月9日月曜日
100歳をむかえたリカルド・カシン
今日、会社から帰宅すると妻が毎日新聞の夕刊を私に差し出してきた。
「ほら、あなたの大好きな人が載っているよ」
それは9面の「人・模・様」というコナー
「高みを目指した山人生100歳」と題されてリカルド・カシンの近況が記されていた。
私がグランドジョラス北壁ウォーカーバットレス(ウォーカー側稜)を登った1988年はリカルド・カシンによる初登攀50年の節目の年だった。
その年には次のような噂がまことしやかに語られていた。
「リカルド・カシンが初登攀50年を記念して再びウォーカーバットレスを登りに来る」というものだった。
実際にはカシンは登りに来なかったけれども、そんな噂がたつほど後期高齢者カシンは現役のクライマーであったということだ。
足元にも及ばないが、そんなカシンに私は憧れる。
「ほら、あなたの大好きな人が載っているよ」
それは9面の「人・模・様」というコナー
「高みを目指した山人生100歳」と題されてリカルド・カシンの近況が記されていた。
私がグランドジョラス北壁ウォーカーバットレス(ウォーカー側稜)を登った1988年はリカルド・カシンによる初登攀50年の節目の年だった。
その年には次のような噂がまことしやかに語られていた。
「リカルド・カシンが初登攀50年を記念して再びウォーカーバットレスを登りに来る」というものだった。
実際にはカシンは登りに来なかったけれども、そんな噂がたつほど後期高齢者カシンは現役のクライマーであったということだ。
足元にも及ばないが、そんなカシンに私は憧れる。
2009年1月24日土曜日
2009年1月5日月曜日
トホホの初登山
久しぶりに家族全員五名揃っての初登山です。正月の2日から一泊二日で日光白根へ行きました。積雪期に四度目となるコースです。
2日は天候が芳しくなく湯元スキー場の第二ペアリフト上の吹き溜まりではスノーシューを履いても急斜面のために腰から胸まで雪が達する状態。単独登山者と交替でラッセルを繰り返し、外山のコルまで5時間を要しました。この時点で白根山登頂は諦め、コルにて幕営。翌日下山することにしました。
3日は晴れ間ものぞいていましたが風強く、ブリザード。朝から3パーティーが上がってきました。
13時に下降開始。
そして13時30分頃、急斜面を滑り落ちるように下っていると針葉樹の根が絡み合ってリング状になっている輪の中に左足がはまりました。
まずい!と思って反射的に体をひねって左足を抜こうとしましたが上体に勢いがついているので間に合わず。ベキッという大きな音がして下腿骨が折れたことを自覚しながら雪面に投げ出されました。足を見るとすでにブラブラの状態でつま先があらぬ方向を向いています。標高を見ると1880m。手にしていたウッドシャフトのシモンPBは吹っ飛び行方不明。
すぐさま女房と子供たちが駆けつけて応急処置です。標識用の旗竿を二つ折りにして添え木として代用。テントの張り綱で縛り上げ患部を固定しました。
看護師の敦子は動かさない方が良いので救助要請を主張しましたが、私は頑として自力下降を主張。1981年に一ノ倉沢烏帽子沢奥壁ダイレクトルートで右足首を粉砕骨折した時も自力下山ができたのです。今回も下山できないはずはないと歯を食いしばり二時間を要して第二ペアリフトの終点近くのゲレンデへ到着。敦子がパトロールのスノーモービルを呼んでくれパトロール詰め所でDr鶴見に応急処置を受けました。
妻の運転で22時30分帰宅。
翌1月4日。午後千葉市休日救急診療所にてX線撮影の結果、下腿骨骨折の詳細が判明。うち頚骨は螺旋骨折にて手術が必要とのことでそのまま救急車で整形外科医のいる病院へ搬送されました。
今回の怪我後、私がまぎれもなく油断していたマヌケ登山者であることを突きつけられ、愕然としたのは、長女の敦子が次のようなことを認識しながら下降していたことを知ったからです。
「映画“バーチカルリミット”で岩の穴に足をとられて骨折してヘリで救助されるマヌケな登山者が出てくるよね。ところどころで木の根が手すりのように雪の中にあったから、あれと同じことが起こるかも知れないルートだと思いながら用心して下っていた」
事故を事前に察知する想像力が昔は高かったのに、もう敦子には完全に追い抜かれたようです。
本当にトホホです。
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