2005年11月23日水曜日

もうすぐ待降節




次の日曜日から待降節、すなわち降誕祭の準備期間に入る。

例年通りクリスマスツリーを玄関ホールに飾り、クリスマスリースを玄関のドアに掲げた。

庭にはサザンカが咲き、くちなしの実が赤かった。

2005年11月22日火曜日

カトリック徳島教会




徳島大学病院でシステムの打ち合わせがあり、はるばるやってきた。羽田--徳島間にANAは就航しておらず、スカイマークという航空会社の飛行機が日に4便あるのみ。
昼頃の南国情緒ただよう徳島空港は人影もまばらで、気温も高く、穏やかだ。
時間がゆっくり流れているのが感じられる。それはいつだったか訪れたハワイ島のヒロで感じたものと同質のものだった。

打ち合わせまで2時間ほどある。
徳島城址近くにあるカトリック徳島教会へ行く。

教会堂名は「聖パウロ三木」
「聖パウロ三木」は日本26聖人の一人である。
1592年2月5日
殉教前に十字架の上で群集に向って「パウロ三木」はイエスの本質である愛を祈ったという。

2005年11月21日月曜日

王であるキリスト カトリック北十一条教会



今日は、王であるキリスト

朝10時から仕事。 従って、10時に始まる札幌北一条教会の一番ミサには出られない。
そこで「カトリック教会情報ハンドブック2006」を見ると札幌カトリック北十一条教会の一番ミサが7:00とある。
朝5時30分に起床し、札幌駅近くにあるホテルからタクシーで向う。

昨日の嵐で路面は凍結しタクシーですらスピン寸前の走行である。
6時40分に教会へ到着した。
祈りのときを経て、7時からミサが始まった。

ミサの後で神父様に私は言った。
「西千葉教会からきました」
神父様は喜ばれ
「西千葉は大きな教会ですね。今年はロッテが優勝しましたね」
と声をかけてくださった。
ロッテの優勝と聞いて思わず小林神父様を思い出した。

外に出て、教会の敷地内を散策すると奥に印象的なルルドと共同墓地があった。

先程、札幌出張から帰ってきたのだが、明後日の火曜日には徳島出張である。

小樽カトリック住ノ江教会



小樽にはもう一つカトリック教会がある。
この教会も歴史的建造物の一つとして名高い。

信徒の方に「御聖堂でお祈りをさせてください」とお願いをして中に入る。

天使祝詞を唱え典礼聖歌210番「平和の賛歌」を歌う。

2005年11月20日日曜日

小樽カトリック富岡教会


たった今、帰宅した。
昨日、すなわち11月19日は札幌に12時頃到着し、レンタカーで小樽へ向った。
雹、霙、霰が強く降り注ぎ、空は雲に覆われ薄暗く、嵐の札幌だった。

小樽の富岡教会へは、20年ほど前の札幌転勤時代に父と母を案内したことがある。
その後も、女房と何度が 訪れたことがあるが、いずれのときにも御聖堂には鍵がかかっており中でお祈りすることはできなかった。今回も無理だろうと思っていたら、信徒の方が傍らのログハウスの中で待機しておられお願いして鍵を開けてもらった。
はじめて入る御聖堂は二階にあった。
天使祝詞を唱え、典礼聖歌52番「神のはからいは」を歌う。
鍵を開けてくれた信徒の方は一階で待っておられたようだった。ログハウスでお茶を用意しているので寄っていくように言われた。

暖かいストーブのある小舎の中で二人の信徒の方と談笑した。
富岡教会の信徒数は名簿上は約250名。しかしながら実態はその三分の一だという。
歴史的建造物である富岡教会を100名に足らない信徒で守っていく困難さを思わずにはいられなかった。

2005年11月17日木曜日

20年ぶりの函館再訪




15日の夕暮れ時に函館空港についた。気温は4.5度。
バスで市内へ入り、函館国際ホテルに荷を置いた。

仕事の打ち合わせまで1時間ほどあったので、カトリック元町教会へ行った。

もう真っ暗になった函館の街を、路面電車通りに歩いていく。手がかじかみカバンを持つ手は冷え切っていた。

坂道を登り、カトリック元町教会の前に立つ。
敷地内に入り聖堂に入ろうとしたが、鍵がかかっていて入れない。やはり観光地の教会だからしかたがないのだろう。
ミサの時間を確認した。ミサは主日に行われるだけのようだ。私が所属する小教区であるカトリック西千葉教会では、毎日ミサが行われている。11月に入って数多くの教会を訪れたが毎日ミサを行っているのは長崎の浦上天主堂だけだった。
他の教会でミサが毎日行われていないことに最初はとても驚いたが、それだけ信徒の数が少ないのだろう。その少ない信徒で教会を維持している。
仕事が終わり函館国際ホテルの部屋に戻ったのは21時。途中のコンビニで焼酎と日本酒、そしてつまみを少々買い求め、部屋で静かに呑んで眠った。

そして翌日となった今日の朝、明るくなるのを待って、改めて元町教会へ行った。塀に絡まる蔦が紅葉していた。
カトリック元町教会の隣にあるハリストス正教会へも訪れた。

コンビニで買い求めた朝食のおにぎりを持って、始発の便で東京へ戻った。
勤務先のオフィスで23時まで仕事をして、帰宅した。

2005年11月14日月曜日

高層ビル街にも秋


暖かい日が多かった今年だが、勤務先のオフィスがある高層ビル街にも秋がやってきた。

四街道の自宅を5時30分頃出ることが多い私。すでに日の出は遅く、この時間帯では真っ暗だ。

明日は次女の修学旅行。

私は明日は函館出張。一泊で帰り、二日おいて土日と札幌。
函館では元町教会、札幌の仕事は夕方からなので、早めに行って小樽の富岡教会と住江教会まで足をのばして見たいものだ。

2005年11月13日日曜日

カトリック教会での七五三


先週の主日のミサは中津の古城教会だったから二週間ぶりの西千葉教会でのミサだった。

この二週間で、巡礼した教会の御聖堂は14。内訳は浦上、大野、出津、黒崎、樫山、大浦、聖フィリポ、中町、古城、中津、松木町、秋田、元寺小路、北仙台。
教会以外の巡礼地としては次兵衛岩に日本二十六聖人記念碑、ペトロカスイ岐部記念公園を訪れた。

毎月日曜日の第二ミサ後に信徒4人で交代で財務当番をしているが、私と一緒に第二日曜日に財務当番をしている金田さんが帰天した。
毎月当番の日には、その一ヶ月間に起こったことなどを金田さんに聞いてもらいながら、財務の集計作業を行うと言うのが習慣になっていた。金田さんのいない初めての財務当番の日をむかえた。
ルカ金田堯穂(タカホ)さん75歳。

今日のカトリック西千葉教会では聖体拝領後に七五三が行われた。子供たちには千歳飴が楽しみであろう。

2005年11月12日土曜日

秋深まる仙台




今日の朝は仙台でむかえた。目覚めると雨模様だった。
雨の中を「カトリック元寺小路教会」へ向う。朝も早いし、雨模様なので薄暗い。

門が閉まっている。
残念ながら、ここでも週日の朝のミサは行われていないようだ。

仕事が終わり、仙台駅へ向う途中、「北仙台カトリック教会」と「カトリック元寺小路教会」に立ち寄る。
「カトリック元寺小路教会」は仙台教区のカテドラルでもあるので、売店が併設されている。立ち寄ると「カトリック情報ハンドブック2006」が入荷していた。
売店のシスター曰く「今日入荷したんです」
「聖母の騎士9月号」とあわせて買い求めた。

雨も上がり、日が差して秋の青空が広がって、北風が強くなってきた。

12時24分仙台発の「こまち」で家路につく。

ところで、「こまち」の指定席に座り、元寺小路教会で分けてもらった「カトリック仙台教区報11月号」を読んでいたら、左隣に座っていた紳士が
「大変失礼ですがカトリック関係の方ですか?」という。
「はい、信者です」と答えると
「私はプロテスタントの牧師です。偶然ですね」という。不登校の子供たちのカウンセリングをしており、これから東京で講演に向う途上だという。
小さな冊子をくれた。
聖母の騎士にざっと目を通してから、一気に読み通した。
示唆に富む内容だった。

気象庁より東京での北風一号が発表された。

秋田のいしぶみ




秋田出張、11月10日の夜20時羽田発のANAで向った。
秋田市内のホテルへ入ったのは22時頃だったが、雷雨である。
雷雨は翌朝まで続いた。

6:00、ひょっとして朝のミサがあるのではないかと、雨の中を秋田教会へ向う。
平日のミサは、市内の修道院で行われていると掲示板にあった。
御聖堂の中で天使祝詞と「典礼聖歌208番」グロリアを歌う。

外に出て、御聖堂の右手を見ると碑がある。
近寄ってみると「秋田殉教碑」とある。

碑に刻まれた文言は次の通り
**********************************************
一、きりしたん衆三十二人火あぶり、内、二十一人男、十一人女。
一、天気よし。
寛永元年(西暦千六百二十四年、七月十八日)旧秋田藩奉行梅津政景の日記より。 

夏、うだる暑さのなかで、あなた達は待ちつづける
主のみ手にゆだねるその瞬間を。

足もとのとろ火、きつい日ざし、
主よ、あわれみたまえ。

聖マリヤ、われらのために
祈りたまえ。

ただ、ひたすらに瞬間を待つ。
そして、すべてが成りおわる。

その夜から三晩、不思議な光が刑場の上空に輝いた。

今からおよそ三百六十年前、草生津(現八橋)の殉教者をはじめ、県内各地百数十人にも及ぶ殉教者を顕彰し、「天にみ栄え、地に平和」と祈りつつ、ここに殉教碑を建立する。

宣教再会百二年(秋田教会飛躍二年)
千九八六年(昭和六一)七月十八日
秋田カトリック教会信徒一同
**********************************************

夜、仙台へ移動。

2005年11月10日木曜日

戴帽式


今日は、長女の戴帽式。

戴帽生全員で唱和した誓いの言葉は、ナイチンゲールがイエスに誓った言葉だと校長先生が言っていた。

良いことを体験した。

2005年11月9日水曜日

ルワンダ人ボナの葬儀ミサ



福島へ出張した。

昼飯を食べる時間を削って、福島駅から一番近い「カトリック松木町教会」を訪ねた。

ここ福島は昨日の最高気温が22度あったそうだが、今日は冷たい木枯らしが吹き、雪雲が吾妻の山々を蔽っていた。
山は雪模様のようで、時折雨粒が風に乗って飛んでくる。
空には大きな美しい虹がくっきりとかかっていた。
一方、街の中に目を転ずると、公園の桜の樹が青空の下に紅葉の盛りをむかえていた。

カトリック松木町教会では偶然、葬儀ミサを行っていた。
御聖堂の外で祈っていたら、係りの人が中に招き入れてくれた。

帰天したのはルワンダ人のボナという人だった。
アフリカのルワンダという国で起こったことを全世界の人々が大なり小なり知っている。
NPO法人の人が何人か来ていたが、ミサの参列者のほとんどが典礼聖歌を歌い聖体拝領を受けていたから大半はカトリック信者だろう。

そういえば数年前、カトリック千葉寺教会とカトリック西千葉教会が協力してアフガニスタン難民をカトリック都賀集会所の聖堂の二階で数ヶ月間にわたって保護したことがある。
アフガニスタン難民を受け入れるにあたって、その是非をめぐってカトリック西千葉教会で集会が行われた。その集会の中で信徒の中に「アフガニスタン人は薄気味が悪い」などと言う人が少なからずいたことに驚きを隠すことはできなかった。 主日のミサの福音朗読に語られているイエスの言葉はどこへ行ったのだろうと、悲しい思いをした。 アフガニスタン難民こそ旅人で、私たちはサマリア人ではなかったのかと。
そんな中で、カトリック都賀集会所運営委員長でカトリック千葉寺教会所属の相松さんを中心として献身的な活動が行われ、勇気付けられた私も賛同し、カトリック都賀集会所の近隣の住民に理解を求めるために一軒一軒まわった。

聖体拝領後、「神ともにいまして」を歌いながらボナさんのために祈った。

12時30分ごろカトリック松木町教会の御聖堂を後にし、勤務先の仙台支店駐在のNさんが待つ福島駅へと向った。

2005年11月6日日曜日

信者第一号


最後に中津教会へ立ち寄った。

私の祖母の実家である土屋家が中津教会の第一号信者だったという。
曾祖母の嫁入り道具の箪笥の奥には十字架とマリアが隠されていたときく。

その中津教会のステンドグラスがマリア像を照らす。

天使祝詞を唱え、「かみさまのあいは」を歌う。

故郷の教会


名のある教会ではない。
小さな教会である。

第32主日のミサに集まったのは母と私以外には8名。

少ない信者で教会を守り、信仰を守っている。祖母も伯母も伯父、すなわち私の一族皆が祈った教会。
思い出すカール・デンライトネル神父様、修道士のロメリ先生、ドン・ボスコ学園。
イエスが弟子たちを愛して愛して愛しぬいたように、私達家族を愛しぬいたアンナ賀来トヲ、ペトロ賀来団二、アグネス伊達加志子、ヨゼフ賀来慶二。
マキシミリアン・コルベ賀来殿児、カタリナ賀来明子とともに祈る。

それが大分県中津市にあるカトリック古城教会。

2005年11月5日土曜日

ペトロ・カスイ・岐部神父 長崎から中津、国東へ


11月4日に中津へ移動し、翌日は母と合流して国東半島の岐部部落にあるペトロ・カスイ岐部神父記念公園へ。

人間はここまで美しく強くなれるのか。
大分県が排出した最も偉大な人は福沢諭吉ではなく、ペトロ・カスイ岐部であり、世界に誇れる偉人だと私は信じている。

セッキ神父様が建てたという小さな礼拝堂に入り母と主祷文を唱える。

母に洗礼を授けたセッキ神父様は91歳になり、別府のサレジオ・ハウスで帰天をまっていると言う。
教会の番をしていた85歳の岐部翁に知らされた。

2005年11月4日金曜日

原爆の廃墟から立ち直った教会


原爆の廃墟から立ち直った教会としては、なんといっても「浦上天主堂」があまりにも有名である。
それは浦上教会が迫害、潜伏キリシタンからカトリックへの復活、浦上四番崩れ、原爆の廃墟からの再建、司教座教会と深い意味を持った特別な教会だからやむをえない。

長崎にはもう一つ原爆で廃墟と化した教会がある。

それが中町教会である。
天使祝詞を唱え、 「小さな人々の」を歌う。

日本二十六聖人




長崎原爆の爆心地で祈りをささげ、原爆資料館を経て二十六聖人記念碑へ向う。

記念碑の奥にある記念館を時間をかけて静かに読む。

隣接する聖フィリッポ教会の御聖堂で祈る。
天使祝詞を唱え「あなたのいきを」を一人でうたう。

2005年11月3日木曜日

大浦教会


歴史的な価値といった意味で国宝となった大浦天主堂であるが、日々ミサをおこなう信者にとっては祈りの場が観光地となるわけで、静かに祈ることが困難になった。そこで1975年に隣接する場所に御聖堂を立てた。
本来、教会とは建物を意味するものではなく、イエスのもとで信仰を共にするローマカトリック教会を形作る単位である。それゆえに小教区と表現される。 意識して建物を指すときには「御聖堂」と呼ぶ。

前書きが長くなった。
国宝「大浦天主堂」は信者のものではなく国の宝となって多くの人々が訪れる場所となり、祈りの場としてはふさわしくなくなった。
大浦教会の御聖堂の中に入って、祈った。

天使祝詞を唱え、典礼聖歌208番「栄光の賛歌」を歌った。

国宝 大浦天主堂「サンタマリアのご像はどこ」


大浦天主堂へたどり着いたのはもう夕方だった。

「大いなる遺産/長崎の教会」によれば、世界宗教史上の奇跡とも表現されている潜伏キリシタンの発見の舞台となった大浦天主堂。

西洋建築で唯一の国宝である。

1865年3月17日、250年の弾圧に耐えた浦上の潜伏キリシタン一行15名がプチジャン神父に言った。
「サンタマリアのご像はどこ」

1660年に殉教した伝道士バスチャンの「7世代後にはローマ教皇がパードレさまを派遣してくれる」という預言が現実のものとなった。

樫山教会のこと


大きなもの、美しいものが尊ばれるのは道理にかなっている。

しかしながら、ふとしたきっかけで視覚的に認知できる大きさや美しさもさることながら、より本質的な大きさや美しさに気づくことがある。

樫山教会は民家の中に埋もれた民家のような教会である。ここには長崎のカトリック教会建築の象徴ともいえるリブ・ウォールト天井もなければ、ステンドグラスもない。

密集した民家と細い坂道。

そこに生きる人、生活する人といった視点で見る時、視覚に映る教会の建物自体にはさほどの意味はなく、この小さな教会を支える信者の内面にこそ教会の本質があると思えるのである。

今回の長崎巡礼でイエスが私に語る本質がこの教会にあるように思えてならない。

黒崎教会


美しい教会。
御聖堂の中に信徒の方が三名ほどいて、ちょうど退出するところだった。
「ごゆっくり」
と言ってくれた。
聖母マリア像の前で、天使祝詞を唱え「キリストの平和」を歌った。

ド・ロ神父、神ともにいまして


出津教会の御聖堂には誰もいなかった。一人で中に入り、聖母マリア像の前で天使祝詞を唱え聖歌を歌った。
それからド・ロ神父記念館に行った。母と同じくらいのシスターが番をしていて、私のためにオルガンを弾いてくれた。最初に「いつくしみふかき」を弾いてくれ、ともに歌った。次は祖母の好きな聖歌「かみともにいまして」だった。この歌を歌うと涙が止まらなくなるので、歌えなかった。

バスチャン屋敷跡


出津教会へ向おうとすると「バスチャン屋敷跡」という小さな小さな看板があった。さっそく行ってみる。

舗装路ではあるが、かなり走った。1600年代は相当な山奥であったろう。

のどかな山々に囲まれた場所だった。

美しい海と大野教会



午後になって、天気が回復した。
海が美しい。
大野教会は修理中だった。
大工さんに断って、敷地内に入れてもらい聖母マリア像の写真を撮った。

次兵衛岩





浦上天主堂でのミサが終わってから少し部屋でまどろみ、レンタカーを借りて9時頃佐世保方面へと向かった。途中で外海方面へ行くことにしてハンドルを左へと切り、山の中の細い道を走った。途中で道は整備された広いアスファルトになり、しばらく進むと道端に「次兵衛岩」という小さな標識があった。
ピンときた。
林の中へと続くコンクリートの道へ車をゆっくりと乗り入れ、200mほど行く。
路肩に車を止めて、歩き出す。
浦上教会での早朝ミサのいでたちだから、背広にワイシャツそしてネクタイ、靴は紳士用の皮靴である。
道は途中で登山道のようになった。紳士用の革靴のソールの為か苔むした岩にすべり、岩に手をついてしまった。岩がとがっていたので右の手のひらをざっくりと切る。仕方がないのでボタボタと血を滴らせながら我慢して歩く。
沢の左岸をしばらく進むと途中で右岸へと渡り、さらに上流へと導かれる。
道は途切れ途切れとなり、不安にかられながら注意深く進んでいく。40分以上歩いた。
こんなところまで来たことを少々後悔し始めていた。

それはドラマチックだった。

薄暗い沢の向こうに少し明るい場所があり、見上げると聖母マリア像の安置されているルルドだった。
美しい。
そこから岩屋はすぐだった。
黒崎教会の人たちが整備したらしい。
祈った。

浦上教会のミサ



昨日の午後から休みをとって、長崎までやってきた。昨夜は21時15分に長崎カトリックセンターへ入ったが、宿泊する部屋に入って窓のカーテンを開けてみると目の前にライトアップされた浦上天主堂が見える。
今日は、早朝6時のミサにあずかった。この時期の九州では6時というと真っ暗だ。地元の信者やシスターがたくさん集まってくる。信者は年配者が多い。西千葉と同じである。
両側の席にはたくさんのシスターが座っている。