2月5日午前中に86歳の母と二人で大分空港に到着した
大分へは年に2回は帰省しているが昨年は怪我もあって2月に一度訪れただけに終わってしまった
空港でレンタカーに乗り込み中津へ向かう途中に国東の重光へ立ち寄った
母の姉の嫁ぎ先である重光の三階建ての家屋は涛音寮として保存され、従姉妹の木の実ちゃんが管理している 涛音寮で蛸飯をご馳走になり重光の墓に参って重光をあとにした
駅館川を渡って中津へ向かっていくとやがて八面山が見え始める
中津に帰ってきたことを実感させてくれる風景である
賀来の流れをくむ拠点が三カ所あると父から聞いている
安心院佐田
豊後高田
中津
このうち佐田の賀来と中津の賀来は相互に嫁のやり取りや養子縁組などをしており関係は深い
ちなみに賀来千香子は佐田で、賀来龍三郎は中津の人である
私の生家はその中津の賀来である
中津の賀来は隣接した三軒の家で構成され、それぞれ屋号でよばれている
すなわち田中屋、田中屋新宅、竹田屋
私は田中屋新宅の人間で、祖父団二は佐田の賀来から田中屋新宅へ養子に入った
田中屋新宅は1929年の世界恐慌や1947年の農地改革を乗り切り、家屋を父の兄である惟途叔父が相続し、田畑など土地を父慶二が相続した
幼いころは中津駅で行き先を賀来と告げるとタクシーが屋敷の中にまで入ってくれていたが築300年ほどの大きな家は住む人もなく10年ほど前に解体された
母の実家である湯屋に泊まった
湯屋は20年ほど前に古い家を解体し、現代風の家に建て替えたので居心地がとても良い
家屋を解体した時「天正元年」と記された瓦があったというから相当古い
この湯屋家は古くから神主を務めており、それゆえ祖父湯屋基三は神職の国学院に入学するために東京へ向かったが、親の意に反して国学院にはいかずに勝手に早稲田へ行ってしまい、神主を継ぐことはなかった
この湯屋家のことは司馬遼太郎の「街道をゆく 中津・宇佐の道」に詳しい
明日は小袋へ行く
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