母の遺品を整理していたら父が大切にしていた予科練の本が出てきて、その中に父の葬儀で私が親族代表挨拶をした時の原稿が挟んでありました
私の親族代表挨拶は幼いころから母に言い聞かせられていた農地解放後の苦労と、また父が語った戦争体験を要約してまとめたものでした
私が座敷の床の間に父の遺影と共にしばらく置いてあった原稿でしたが、それを母が予科練の本の中に入れたのでしょう
以下はその文面です
「遺族を代表いたしまして、皆様にひとことご挨拶申し上げます。
本日はお忙しい中、ご会葬を賜りましてまことにありがとうございました。
私の父、賀来慶二は大正15年9月14日に大分県中津市賀来にて生まれました。
生前の父を語るには太平洋戦争と戦後の農地解放を欠かすことはできません。
予科練卒業後は九十九式艦上爆撃機の操縦員となり、昭和 19年10月 12 日の台湾沖航空戦では東シナ海に墜落し洋上を二昼夜にわたり漂流、まさに九死に一生を得て、昭和20年復員しました。
生き残った予科練の同窓生たちのあるものは学校へ復学あるいは進学し、またあるものは民間航空会社などへ就職していったと聞いております。
一方、復員後の父を待っていたのは占領軍による農地解放でした。
祖父の頼みで農地解放対策として大分に残り、未経験の農業と酪農を営みました。
今でも高台から見渡す土地を「鍬など持ったことのなかった父が耕したのか」と気の遠くなるような思いがします。また、晩年にいたるまで、故郷である大分への思いが強く、「いつかは大分に帰る」と最後までかたくななほどに大分弁を貫いておりました。
振り返ってみますと父は本当に勤勉な人でした。仕事にも非常にパワフルで「遊びを好まず」でありました。そんな父の背中を見ながら育った私たちですが、もう少し人生を楽しむというところがあってもよかったのかなぁと思います。
このような父を陰になり日向になり支えていただいたのが本日、ご会葬いただいた皆様方をはじめとする多くの友人・知人・同僚の方々であり、遺族一同感謝にたえません。
ポンプの技術者としての会社勤めを定年退職後は、二世帯同居で孫たちに囲まれ、穏やかな晩年でございました。
3年前、癌に冒され一時は完治したかと思うほどまでに回復いたしましたが、残念ながら病魔に打ち勝つことはできませんでした。
さて、おかげをもちまして、葬儀・告別式をとどこおりなく執り行うことができました。
故人もみな様のご厚情に深く感謝していることと存じます。
なお、残された私ども家族に対しましても「亡き父」生前と変わりなきご指導を今後とも賜りますようお願い申し上げます。
簡単ではございますが、ひとことご挨拶申し上げ、お礼にかえさせていただきます。
ありがとうございました。」
今日からクリスマスを我が家で過ごすために孫たちが来てくれました
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