1年を迎えたことを実感する甚兵衛蕎麦での忘年会
今年も岩崎と大木さんに会いに行くために宗吾霊堂前の甚兵衛蕎麦へ行きました
アルコールが入るので幸子さんに休暇をとってもらい車で送迎してもらうのは毎年のことです
なぜ、大木さんに会いに行くのでしょうか?
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・・・・1975年6月
当時立教大学山岳部員だった大木友康さんが北穂沢で1年間の休学を必要とする大けがを負いました
1年後に松葉杖で復学しましたが、成田の宗吾霊堂から松葉杖での通学は辛かろうと、1976年初夏から池袋の要町三丁目にある「野村荘」という学生向けのアパートの三畳間(実際には二畳半だった)で大木さんと一年間ほど暮らしたことがあります
担当医からは「一生松葉杖での生活になることを覚悟しておくように」との宣告を受けていましたし、長い入院生活の間に大木さんはお母様を白血病で失っていました
一方私は山へ行くことを阻止しようと必死の父と母から「山に行くのなら経済的援助は一切できん」と言われて
「わかった、今後は自力で暮らすから自由に山に登らせてもらう」と吐き捨てるように言って家を飛び出して「野村荘」で暮らし始めていたのです
やがて「野村荘」は岩崎や砂田とのたまり場になりました
大木さんを囲んで岩崎や砂田と私で山の話を語って夜が更ける、そんな毎日でした
大木さんは月曜日の夕方にやってきて金曜日の朝まで「野村荘」で暮らしていました
そんな「野村荘」の三畳間は二階の角にありました
月曜日の夕方、ぼんやりと下宿の窓から、そろそろ大木さんが来る時刻だがと路地を見ていると夕もやの中をガストンレビュファのオレンジ色のザックを背負って松葉杖をつきながらゆっくり歩いて来ます
部屋にはハーモニカが一つありました
夕暮れ時、私が大学から帰ってきて下の路地から窓を見上げるとハーモニカの音色が小さく聴こえて来ます
もう暗いのに電燈もつけずに一人で[子ギツネコンコン]の歌を吹いているのです
大木さんがもう帰っているんだなと急ぎ足で部屋に駆け込んで電燈をつけると、大木さんは目に涙を一杯にためているのでした
私はそんな大木さんに寄り添うような気持で一つの本を選んで読み聞かせていました
それが「北八ッ彷徨」です
大木さんはたびたび「またあれを読んでくれ」と言ってくれました
大木さんのリクエストは「北八ッ彷徨」の中の「雨池」の章でした
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来年も大木さんに会いに来たいと思いますが、あと何回ほど岩崎と会いに来ることができるのだろうかと思ったりします
帰りに岩崎の家へ送った際に、岩崎が作った野菜を持ち上げられないほどたくさんもらいました 岩崎が一生懸命作ったネギ、里芋、ゴボウ、ニンジン、大根です
時刻経過
09:00 自宅出発
09:05~15 ヨーカドー
10:20 岩崎宅
10:50 宗吾霊堂
11:00~13:05 甚兵衛蕎麦
13:30 岩崎宅
ビール1本、日本酒5合
甚兵衛そば
肉そば
玉子とじそば
甚兵衛そばには蕎麦湯のサービスがあります
蕎麦湯の器が新しくなりました
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