2011年4月26日火曜日

ゴールデンウィーク2010年の涸沢

2009年の正月合宿で左頚骨を螺旋骨折したので2009年はリハビリの一年だった。2009年の5月の段階では歩くのやっとと言う状態。
そして2010年。まだ左足の患部が痛んでいたが涸沢へ戻ることができた。
この年は妻と二人だけの山行。従ってマンツーマンでビレイができるので北穂高岳の東稜を登った。
気持ちのよいルートだった。

ゴールデンウィーク2008年の涸沢

涸沢から奥穂高へ登るのは難度が高い。穂高岳山荘までは易しいが白出乗越から奥穂までが難しい。2008年はその奥穂高岳へ登った。
この年は幸いにも雪の状態が良かったが、梯子のある岩場の頂上側にある50mの雪壁。
帰路、ここの下降が核心部となる。下りはアイゼンのツメを引っ掛けやすく、転倒すれば死亡事故だ。


ゴールデンウィーク2007年の涸沢

5月の大型連休

最近は涸沢へ行くことが多い。そんな涸沢の写真を紹介したい。

まずは2007年

この年は、北穂沢から北穂高岳へ登った。

2011年4月24日日曜日

武市半平太

先週、高知へ出張したおり、武市半平太の墓所を訪問した。

静かな里山にあった。

妻の富と並んで眠っている。

旧宅は県の史跡に指定されている。

新緑:ブナの芽吹き

新緑
庭の緑を撮影してみた

2011年4月23日土曜日

イースター

今日は復活徹夜祭

いつもの年よりも遅い4月下旬となった。

写真は光の祭儀

母と妻と次女と息子の5人で行った。

2011年4月7日木曜日

ラーメンの具

ラーメンの具

上が震災直後
下が昨日

もやしの入荷が通常に戻ったようだ

2011年4月5日火曜日

久しぶり

3月11日の大震災は原発の放射性物質の拡散を伴って深刻な事態となった。

2010年6月27日日曜日

松永敏郎さん


6月はじめに一通のはがきが届いた。

それは山登りの世界で私が最も尊敬している松永敏郎さんからのはがきだった。
松永さんのアポロスポーツが閉店になってから7年が経つ。閉店時に売れ残った商品を分けるので来ませんかという知らせ。

6月26日土曜日に都内のご自宅にお伺いした。
松永さんの教え子や日本山岳協会、日本山岳会などで親交のあった人たちがやってきた。
かつて日本山岳協会の面々と酒を酌み交わしながら囲んだ囲炉裏にはふたがしてあり、その上には奥様の介護用のベッドが置かれていた。
この10年ほどの松永さんの苦労がしのばれた。

2時間ほどお邪魔して、ヘルメット、ストーブ、磁石、ミトン、靴下、ナイフ、ランタンのマントルなどを譲っていただいた。

帰りしなに松永さんは言う。
「もう会えないかもしないな。次に会えるのはあの世かもな」
硬い握手をして別れた。

4月18日からなんらかの形で10週連続で山へ行ってきたが、今週はお休みだ。
妻が風邪をひいてしまったからである。なんとなく一人で行く気がせず、松永さんから譲っていただいた道具の調整などして一日を過ごした。

2010年6月16日水曜日

沢登りルート120


山と渓谷社「沢登りルート120」と言うガイド本が本日発売となった。
帰宅途中に東京駅で下車し、丸の内の丸善で購入。

過去、沢のガイドブックと言うと山と渓谷社発行のものとしては1995年発行の「丹沢の谷110」などがある。これはシリーズになっており奥多摩、奥秩父、上信越などを紹介したガイド本が連続して発行された。
このシリーズは上信越を除いては記述がいい加減なものが少なくない。「丹沢の谷110」は特定の著者のものではあるがあきれるものがある。

2000年発行の白山書房の「東京周辺の沢」も一般的である。

山と渓谷社の「丹沢の谷110」と白山書房の「東京周辺の沢」を読み比べてみると、同一の著者が同じような記述をしているものがあり、いい加減な記述は特定の著者であることがわかる。

しかしながらこのようないい加減な記述が問題になった話しはあまり聞かない。それなりのベテランを対象とした沢登りの分野では遡行者自身が判断してルートを発見し登ることが前提となっているし、沢の形状は変化が激しいこともある。
この本に過去のガイド本のようなアバウトさがあるかどうかは、もう少しじっくり読んでみないとわからないが、記述が間違っていたがために遭難したとして訴訟を起こすような新人類が出てきそうだ。編者の宗像氏が「はじめに」で懸念している通りである。

ひとつ興味を引いたものがある。インタレストグレードである。ロッククライミングを中心として山登りを行ってきた私の価値観とこのガイド本の価値観の相違である。

少し考えてみたが「沢を登攀対象として捉えるのか否か」が影響しているように思える。私にとって沢は登攀対象ではなくどちらかといえば旅に近いものだ。
純粋に登攀行為を追及するのであればフリークライミングに帰結するし、自然条件などの不確定要素をはらんだ登攀を追及するのであれば国内では奥鐘山西壁などを頂点とする課題がある。さらに追求をしていけばそれらの冬季登攀が課題となろう。

私がただの河原歩きと徒渉の連続に過ぎない黒部川の上ノ廊下を三度にわたって遡行したのは登攀の価値観とはまったく異なる価値観をそこに見出したからだと思う。一ノ倉沢、奥鐘山、ナチュプロのフリールート、グランドジョラス北壁などとは異質の価値観がそこにはある。

沢登りに登攀の価値観を持ち込むことに違和感を感じている私から見ると沢登りの価値観は登攀の価値観とは別のものであるということをもう少し前面に打ち出しても良かったのではないか。

2010年4月1日木曜日

松本の馬刺し&秋田


3月30日に松本へ入り、仕事が終わってから馬刺しなるものを食す。

もちろん、馬刺しの名店など知らないので地元信州大医学部附属病院のHさんに紹介してもらって行ったお店
店の中に入って注文のやり取りをしていて、女将いわく「あんたらひょっとして初めてか」と驚かれました。
初めてだということに驚かれたことに、私たちが驚いたといった感じでした。

味噌馬刺し、霜降り馬刺し、刺身盛り合わせ、モツ煮込み、野沢菜、そして4人で酒一升程度。

生まれて初めて馬刺しでおなかいっぱいになりました。

このお店は、観光客向けのお店ではありません。

なにせ、メニューがないのですから。従って予算計画というものが立案できません。

何がいくらで出てくるのか・・・。

かって知ったる常連だけを相手にするお店という感じでした。

写真は霜降りの馬刺し一人前

2010年2月22日月曜日

トンテキって知ってる?


いつものとおり「のぞみ305号」に乗って、今日は名古屋。
昼飯に「トンテキ」なるものを食したくて、名古屋支店のメンバーにリクエスト。

ところが、長い打ち合わせと得意先への訪問に引っ張りまわされ、昼食をとったのはなんと16時。

やっぱり執念でトンテキ食べます?という雰囲気を押し切ってトンテキを所望。

連れて行ってもらったのは名古屋支店のすぐそばにある「広小路キッチンマツヤ」
http://www.sanynet.ne.jp/~mty/

社内における事前のトンテキに関する下馬評は必ずしも芳しいものではなかった。いわく甘いたれが我慢できないなど

ところがどっこいおいしいではないか!
名古屋の食として「ひつまぶし」「味噌煮込み」「きしめん」「味噌カツ」を昼食として食べてきたが、トンテキは上位ランクに位置するのではなかろうか?

2010年1月14日木曜日

10年たってから思い返す「今日は何の日」



早朝、職場の椅子に腰掛けてお茶を飲みながらラジオを聴いていると「今日は何の日」といくつかの記憶されるべき過去の1月14日のことが語られはじめた。
タローとジロー再会の日という。番組では語られなかったがネットで検索してみると今日は三島由紀夫の誕生日でもあるようだ。

今日は取引先へ赴き、そこの売店で万年筆を買い求めた。
二年ほど前に同じ売店で腕時計を買ったこともある。そのとき買った腕時計は息子素直に持っていかれてしまった。
父の面影を求めて買った海軍航空隊の腕時計の復刻版だったから素直が使ってくれるのは、ある意味本望かもしれない。

夕方になって、職場のSさんの通夜に行った。ここ数年来のSさんの闘病生活についてはここで触れるわけにはいかないが、残された二人のお嬢さんと我が家の子供たちとはほぼ同年齢である。
姿がダブって感じられ、胸に詰まるものがあった。

現役社員の逝去ということで、多くの職場のOB、販売、工場、開発などのメンバーが通夜に集まった。その中に80歳近いOBのFさんの姿があった。Sさんは50半ばだからFさんは30年以上前のSさんの新入社員時代を知っている。
棺を開けてもらって祈るFさんの姿が目に焼きついて離れない。

もし妻と私が死んだなら残された敦子・朋子・素直は通夜の席でどう振舞うのだろうか。

敦子と朋子は泣き腫らして真っ赤な目をしていることだろう。Sさんの二人のお嬢さんは目を真っ赤にしていた。

人間は自らが大病したり、身近な人の訃報に接しない限り、生きていることに対して実感や感謝の気持ちを抱くことはできない。
つくづくそう思う。

明日は告別式。

2010年1月2日土曜日

あけましておめでとうございます


山登りの世界は一年中、楽しいことばかりですね。

12月から3月にかけては房総の山が最適です。12月の初旬は紅葉の盛りで、紅葉が終わると蛭がいなくなり房総の沢は最盛期を迎えます。鴨川の待崎川周辺では半袖シャツで過ごせます。12月下旬から1月は水仙でしょう。保田周辺では水仙の甘い香りでうっとりするほどです。やがて水仙から菜の花へ、そして梅の花。

3月下旬から4月初旬は何と言っても筑波山が最高。カタクリの花やキクザキイチゲに続いて北面ではニリン草が咲き、やがて大島桜、つつじが筑波山全体をピンク色に染めるのです。5月は山菜のシーズンでもあります。那須の奥地で過ごす休日は何とも言えません。

水がぬるんでくると丹沢・奥多摩の沢シーズン幕開けです。毎週沢三昧が続いてあっという間に6月です。6月ともなると活動範囲は一気に広がってどこでもOK。プランが目白押しで悲鳴をあげそうです。7月・9月のメジロアブのいない時期は東北の沢。8月は年に一度の北アルプスの大渓谷 。10月になると紅葉を求めてそわそわ。そして11月。丹沢や奥多摩の沢をいくつか登ってから房総の沢へ帰ってきます。

これ以外にも、2月の足尾アイスクライミング、3月は八ヶ岳の雪稜、上高地スノーハイキング、5月には穂高へ行きたいし、夏には縦走にも行きたい。秘湯や岩魚釣りへも行かねばならぬ。

ああ・・・体がいくつあっても足りません。

安全登山 二〇一〇年正月

2009年10月8日木曜日

JR東日本 奥只見のポスター

二年ぶりに上陸したという台風18号


296万人に影響がでたというニュースが流れましたが、その中の一人が私でした。

いつもの通り四街道発5時20分の電車に乗り、普段と変わらず6時23分に品川到着。10分後にオフィスに入りました。

今日は大田区の下丸子という私鉄沿線の田舎町で会議でした。通常下丸子のオフィスまで品川から40分なので、倍の80分を見込んで7時50分に品川の事務所を出ました。

とこが、品川へ出てみると京浜東北線は止まったまま。しばらく待っていたところ首都圏のJRはすべて運行停止のアナウンス。
仕方がないので京急でひとまず蒲田まで行こうということで京急へ。

結局二時間近く費やして9時40分に下丸子のオフィスに到着。同僚のM君到着したのは13時でした。

三連休は長女の敦子と奥只見に行くぞ!


それにしてもJR東日本のこのポスター。

説明文には次のようにあります。

「明らかにはじめての地だという感覚。海外のような開放感さえあるが、紛れもなく日本だ。奥只見湖の西、銀山平は越後駒ヶ岳を背に黄金色に輝き秘境の雰囲気を増幅させる。誰かに教えたい気もするが、秘密にもしておきたい。そんな光景との出会いだった。」

ほれぼれとします。

先月、そして今月と二カ月連続で奥只見に行こうという気にさせてくれたのはこのポスターの影響大いなるところがあります

2009年6月23日火曜日

吾妻連峰 東大巓


リハビリ山行を続けています。
この土日は骨折後、初めて山で泊まるというプランで敦子と朋子と妻の4人でのんびり登ってきました。

目指した山は東大巓

東大巓ってどこ?というか何て読むの?と思う人も少なくないでしょう。
ヒガシダイテンと読みます。

福島県と山形県の県境にある吾妻連峰の山です。一度37年前に登り損ねていたこともあり、また途中にある弥兵衛平小屋(明月荘)に魅かれ行ってきました。

良い山でした。それに滑川温泉も良かった。

写真は「乙女ゆり」あるいは「ひめさゆり」と呼ばれる絶滅が危惧されている花です。
38年間にわたって山に登り続けていて初めて「ひめさゆり」を見ました。

東大巓

2009年6月8日月曜日

五か月ぶりの山



昨日1月3日に足を折ってから初めて山に行きました。行きなれた西丹沢の小さな沢。
初夏の木漏れ日の中を野鳥の鳴き声を聞きながら、沢の水と戯れるようにゆっくり登っていく。
誰もいない静かな山頂で、初夏の風に吹かれながら妻とコーヒーを飲みました。


西丹沢マスキ嵐沢

2009年5月21日木曜日

ライブコンサート


日本山岳協会の常任委員をしていた頃、岸記念体育館内の日山協の事務所へ行くために仕事が終わってから原宿のホームに降り立ったものだった。

昨夜、その原宿に妻と二人で降り立った。

何のために?
それはポルノグラフィティのライブを観にいくためである。

なぜ・・・
それは敦子が行こうと買い求めたチケットだったけれど、肝心の敦子が夜勤でいけなくなって、チケットがもったいないからと妻と二人で来たのだった。

マスコミを通じてライブのさまは間接的に知っていたが実物を体験するのは初めてである。もちろん地下の小さなライブハウスでジャズを聴くといったことはあるにはあったが・・・。

妻と二人で席につき、開演を待った。

定刻をいくらか遅れたころ、突然照明が消えた。
その瞬間、数千人の観客がギャーっと叫んだ。そして赤い照明が点滅し難聴になるような大音響が響きはじめた。

すると観客は全員立ち上がった。座っていた私からは何も見えなくなった。周囲の観衆は一斉に踊り始めた。

ものすごい音響と観客の熱狂。会場の隅々までまるで振付があるかのように規則ただしく手を振り、タオルを振る。

ライブの主役はステージの演者ではなく観衆である。

私は心底そう思い、歴史の時間に学習した幕末のある出来事を思った。

これはまさに21世紀の「ええじゃないか」ではないかと。

2009年5月19日火曜日

骨折後4ヶ月


足の調子はだいぶ良くなって日常生活では少し足を引きずるといったところです。

27年前に一ノ倉での事故で右足首を粉砕骨折した時は、5月末に事故って8月初旬にギプスがとれ、その週末に越沢バットレスへ行き、二週間後に奥鐘を登ったので、今回も3月末の三連休にはどこかの雪山へ行けるだろうと思っていましたが、とんでもない。

階段の下りに難渋するので、山に登るのは登れても、下山ができない状況です。

それでも今週末あたりは軽いハイキングくらいには行きたいなぁー。

そのうち山で快気祝をしてくださいな。

写真は5月連休に行った那須でのキャンプの一こまです。

2009年4月4日土曜日

山桜


ソメイヨシノよりも山桜が良い。
山桜の薄いえんじ色の葉と花の配置が日本画を思わせる。

この一週間を振り返ってみたい。

3月30日月曜日
事故後初めて出張をした。日帰りの大阪往復だった。帰りの新幹線で宝塚音楽学校の生徒と席が隣同士だった。

3月31日火曜日
全日休で左足のエックス線撮影。ようやく骨がつながりつつあるようだ。

4月1日水曜日
半休をとってリハビリ。左足での片足立ちができない。

4月2日木曜日
仕事で厚木へ行った。千葉では朝方まで冷たい雨が降っていた。9時に本厚木駅へ降り立ち丹沢の山を見て驚いた。
まっ白。
昨夜から今朝がたまでの冷たい雨が丹沢では雪だったようだ。

4月3日金曜日
朝から忙しかった。午後になって下丸子へ行ったが、道々の桜が満開であった。

4月4日土曜日
仕事がたまっているので出勤しようかとも思ったが起きられなかった。午後から妻と買い物に出かけ食事をする。帰宅してから母と薪ストーブで遊んだ。

2009年3月18日水曜日

松葉杖がとれた



先週日曜日に薪ストーブを買った。
八ヶ岳の赤岳沢出合小屋にあるものと同型の時計型ストーブ。
出合小屋のものは鉄製だが、買い求めたのはホンマ製作所のステンレス製で6800円。

休日にこのストーブでスープを煮込むのは楽しい。

今日、松葉杖がとれた。久しぶりに二本足で立ったが、左足の筋力が極端に衰えているのでビッコを引きながら歩かざるを得ない。

2009年2月15日日曜日

装具なしの外出

今日は、足の具合もだいぶ良く、装具なしで松葉杖一本で外出しました。

仕事がだいぶ溜まっていたので、近くの公民館の会議室を借りるkとにしました。長男の素直に声をかけて一緒に勉強しようと出かけました。
ところが・・・、素直は勉強道具を一切持っていないのでした。
聞くと「学校に置きっぱなし」とのこと。

私はあきれました。しかたがないので、電子辞書に内蔵されている問題集をすることにして公民館へ行きました。

公民館の会議室で4時間ほどすごし、それから買い物に行きかえりました。

昨日は6月の陽気で、今日も4月の陽気でした。明日は冷え込むそうですね。

風邪をひかぬようお互いに気をつけましょう。

2009年2月11日水曜日

一本松葉杖で通勤

足の具合はだいぶ良く、一本松葉杖で通常通り通勤しています。まだ、出張はできませんけれどね。
来月には松葉杖なしで歩けるようになるんではないかと期待しています。

梅の花も咲いて、沈丁花の蕾も膨らんできました。
5月には山に復帰したいと思っています。

2009年2月9日月曜日

100歳をむかえたリカルド・カシン

今日、会社から帰宅すると妻が毎日新聞の夕刊を私に差し出してきた。
「ほら、あなたの大好きな人が載っているよ」

それは9面の「人・模・様」というコナー

「高みを目指した山人生100歳」と題されてリカルド・カシンの近況が記されていた。

私がグランドジョラス北壁ウォーカーバットレス(ウォーカー側稜)を登った1988年はリカルド・カシンによる初登攀50年の節目の年だった。

その年には次のような噂がまことしやかに語られていた。
「リカルド・カシンが初登攀50年を記念して再びウォーカーバットレスを登りに来る」というものだった。

実際にはカシンは登りに来なかったけれども、そんな噂がたつほど後期高齢者カシンは現役のクライマーであったということだ。

足元にも及ばないが、そんなカシンに私は憧れる。


2009年1月24日土曜日

近況


私の近況ですが、写真にありますようなPTB装具なるものを一昨日装着しました。
左ひざで加重を支えるという装具で、痛いのなんのってまるで拷問のようです。しかしながら慣れるしかありません。辛抱して歩行訓練をしていますが、皮がむけて血が滲んだりしています。
それでも今日は2kmほど歩行し要領をつかみかけています。来週あたり退院できそうです。

2009年1月5日月曜日

トホホの初登山


久しぶりに家族全員五名揃っての初登山です。正月の2日から一泊二日で日光白根へ行きました。積雪期に四度目となるコースです。

2日は天候が芳しくなく湯元スキー場の第二ペアリフト上の吹き溜まりではスノーシューを履いても急斜面のために腰から胸まで雪が達する状態。単独登山者と交替でラッセルを繰り返し、外山のコルまで5時間を要しました。この時点で白根山登頂は諦め、コルにて幕営。翌日下山することにしました。

3日は晴れ間ものぞいていましたが風強く、ブリザード。朝から3パーティーが上がってきました。
13時に下降開始。

そして13時30分頃、急斜面を滑り落ちるように下っていると針葉樹の根が絡み合ってリング状になっている輪の中に左足がはまりました。
まずい!と思って反射的に体をひねって左足を抜こうとしましたが上体に勢いがついているので間に合わず。ベキッという大きな音がして下腿骨が折れたことを自覚しながら雪面に投げ出されました。足を見るとすでにブラブラの状態でつま先があらぬ方向を向いています。標高を見ると1880m。手にしていたウッドシャフトのシモンPBは吹っ飛び行方不明。

すぐさま女房と子供たちが駆けつけて応急処置です。標識用の旗竿を二つ折りにして添え木として代用。テントの張り綱で縛り上げ患部を固定しました。

看護師の敦子は動かさない方が良いので救助要請を主張しましたが、私は頑として自力下降を主張。1981年に一ノ倉沢烏帽子沢奥壁ダイレクトルートで右足首を粉砕骨折した時も自力下山ができたのです。今回も下山できないはずはないと歯を食いしばり二時間を要して第二ペアリフトの終点近くのゲレンデへ到着。敦子がパトロールのスノーモービルを呼んでくれパトロール詰め所でDr鶴見に応急処置を受けました。
妻の運転で22時30分帰宅。

翌1月4日。午後千葉市休日救急診療所にてX線撮影の結果、下腿骨骨折の詳細が判明。うち頚骨は螺旋骨折にて手術が必要とのことでそのまま救急車で整形外科医のいる病院へ搬送されました。

今回の怪我後、私がまぎれもなく油断していたマヌケ登山者であることを突きつけられ、愕然としたのは、長女の敦子が次のようなことを認識しながら下降していたことを知ったからです。

「映画“バーチカルリミット”で岩の穴に足をとられて骨折してヘリで救助されるマヌケな登山者が出てくるよね。ところどころで木の根が手すりのように雪の中にあったから、あれと同じことが起こるかも知れないルートだと思いながら用心して下っていた」

事故を事前に察知する想像力が昔は高かったのに、もう敦子には完全に追い抜かれたようです。
本当にトホホです。

2008年10月19日日曜日

ご当地ラーメン



先週出張した山形の赤湯駅近くにあるラーメンが美味い。
「龍上海本店」の赤湯からみそラーメン
五本指にはいるなあ

その日は、地元の湯治場に泊まった。味気ないビジネスホテルには出来れば泊まりたくないとかねてから思っていた私。そのことを仙台支店のNさんに告げると、夜遅くにこの湯治場に連れて行ってくれた。
私には夜の盛り場は似合わない。山の中で焚き火を見ながら酒を呑むのが似合っている。
この湯治場は山の中の一軒宿で、電気も電話線も通じていない。電気は自家水力発電、電話は衛星電話。窓をあけても暗闇に沢の音がゴーゴーと聞こえるだけ。
部屋にお膳が運ばれ、仙台支店のNさん・課長のHさんと三人でささやかに乾杯。
上司の好みを押し付けられた二人には申し訳ないことをしたのかもしれない。

ところで、1972年に山形インターハイの山岳競技の千葉県代表として吾妻連峰を歩いたことがある。その時にこの湯治場の前を通ったのを覚えている。

2008年10月9日木曜日

うれしいこと



うれしいことって何。

うれしいことって、本当は私の心の中にあるもの。

今日、蒲田駅のホームで見たポスター。吉永小百合が立つどこかの駅。どこだろうかとポスターに近寄って見ると「信濃川上」とある。

信濃川上・・・この駅名を聞くだけで、私の心の中に膨らんでいくものがある。

あの日、あの時。

今日は、勤務先の定例会議が下丸子であって、その会議の内容も良かった。

だから、ささやかなことだけれども、今日はうれしいことが二つあったと思う。

2008年10月5日日曜日

巻機山登川米子沢

ナメに至るまでにはこのようなゴルジュを越えていかねばならない。


長女と二人で米子沢へ行ってきた。
二度目の米子。

今回は秋晴れの下で米子沢のナメを堪能してきた。



そしてお目当ての大ナメ




標高1800mを越えると、紅葉が始まっていた

2008年2月1日金曜日

チーム・バチスタの栄光



私は山の本しか読まないので、普通の推理小説などのエンターテイメントすらもここ数年読んだことがありません。ところが、勤務先のチームのとても信頼しているメンバーの一人が「おッさん!面白い本があるんですが、読みます?」との問いかけ。
それに対して「ああ」と幾分社交辞令を含んだ愛想の良いあいまいな返事をしていましたところ、翌日私のデスクにその本が有無を言わせぬという感じで積まれました。

山以外の本を読むのは本当に億劫で時間の無駄と思っている私は、仕方がないなぁとの思い半分で読み始めました。こういう私の姿勢を評して妻は「お父さんは山オタクだという自覚がないのが喜劇だ」などというのです。山登りにのめり込んでから私を「変人」と呼ぶ人が少なからずいたことは自覚していましたが、そんな私の姿勢自体が我が家では笑いのネタになっているのです。自業自得なんでしょうか・・・。
で、問題の本は上下二巻の文庫本でした。
上巻の最初の100ページを読むのに二日かかりました。本当にイヤになりました。オレはそんなに暇じゃないぞって。ここだけの話、本当は暇なんですけどね。
ところが第九章のリアルな描写に一気に引き込まれ、以降下巻まで一日で一気に読んでしまいした。
その本は「チーム・バチスタの栄光」
医療現場を舞台としたエンターテイメント小説です。著者が現役の勤務医とのことで登場人物に日本の医療が抱える諸問題を語らせていもいます。
本の評価というものは料理の評価みたいなもので好みに左右される幅が大きいのでしょうが、とても面白く感じました。

帰宅してから自慢げに妻と娘に言ったら「それって映画化されるんだよ」
「そんなことも知らないの?」といういつものパターン。
過去「もちろんそんなの知ってるよ」と嘘をついたこともありましたが、とうの昔に見透かされ、今や通用しなくなっております。

私は答えに窮し黙り込んでしまいました。

トホホ。