2005年11月3日木曜日

浦上教会のミサ



昨日の午後から休みをとって、長崎までやってきた。昨夜は21時15分に長崎カトリックセンターへ入ったが、宿泊する部屋に入って窓のカーテンを開けてみると目の前にライトアップされた浦上天主堂が見える。
今日は、早朝6時のミサにあずかった。この時期の九州では6時というと真っ暗だ。地元の信者やシスターがたくさん集まってくる。信者は年配者が多い。西千葉と同じである。
両側の席にはたくさんのシスターが座っている。




ミサが終わり、ボーっとしていたら上品な男性と目が合った。
何とびっくり、同じ西千葉教会の久米さんだ。久米さんは息子の洗礼の代父であり、先年帰天された奥様も次女の代母だった。奥様は聖母マリアのような方で、私の母も含めて私達家族は皆慕っていた。
久米さんはお嬢さんと一緒に巡礼に来たのだという。

私がアンナ賀来トヲとアグネス伊達加志子を思いながら巡礼をしているように、久米さん親子も奥様を偲びながらの巡礼なのかも知れない。


浦上教会は特別な教会で日本のカトリック信者にとって聖地長崎を象徴する教会とも言えるだろう。
私なりに簡単にその歴史を記述してみたい。
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1865年3月17日、250年にも及ぶキリシタン迫害を耐え、大浦天主堂でプチジャン神父に信徒であることを告白したのは浦上村の潜伏キリシタンだった。
これは世界宗教史上に例を見ない奇跡といわれるものである。

その後浦上村の潜伏キリシタンは、大浦天主堂での告白をきっかけとしてカトリック信徒として復活し、奉行所の知るところとなって迫害を受けることとなった。浦上村にとって切支丹禁令後、四度目の迫害となる「浦上四番崩れ」の始まりである。

1868年、幕末からの浦上カトリック信徒迫害を引き継いだ明治政府は浦上村の信徒3,000名を全員流罪とした。
しかも信徒をばらばらにして各地へ送り、流刑地では重い労役や拷問が科せられ多くの信徒が死亡。
明治維新後に、このようなことが行われたことは驚きであるが、諸外国の猛烈な抗議によって1873年(明治6年)キリスト教禁制は解かれ、殉教者613名を出しながらも浦上村の村民は故郷に戻ることができた。

浦上村に戻った信徒達は1895年大規模な聖堂の建設に取り組んだ。元々裕福な村ではなかったところへ「浦上四番崩れ」で家や田地田畑を失った信徒も少なくなかったろう。信者自らレンガの一つ一つを積み上げ、神父は募金を募り、東洋一の規模を持つ浦上天主堂が献堂されたのは20年後の1914年3月17日のことだった。

浦上天主堂が完成してから30年が経過したある日のこと原子爆弾が投下された。
1945年8月9日。こともあろうか爆心地は浦上村であった。
爆心地から至近距離にあった浦上天主堂は跡形もなく吹き飛んだ。被爆により浦上教会の司祭を含む信者12,000名のうち8,500名が死亡。信仰の共同体である浦上小教区はほぼ壊滅したも同然のありさまであったろう。

1958年11月1日、原爆で七割の信者を失った浦上教会の生き残った信者たちは浦上天主堂を再建した。
終戦後、日本全国が貧しい時代だったが、被爆地において生き残った浦上教会の信者3,500名にとって天主堂再建がどれほどの「苦難」であり「喜び」であったのか私には想像することもできない。
1962年長崎教区のカテドラル(司教座教会)としてそれまでの大浦教会に替わって浦上教会が指定された。
1981年2月25日浦上の信徒、長崎の信徒、日本の信徒にとって節目となるミサが浦上天主堂で行われた。
ザビエルによってキリスト教が伝来して450年、すなわち日本のキリスト教徒が450年待ち望んだローマ教皇によるミサが行われたのである。
私自身も2月24日、みぞれ降る後楽園球場で行われた教皇ミサに家族全員であずかることができた。
ヨハネパウロ二世の声を今でもはっきりと思い出すことができることは信仰の上でこのうえのない私の喜びとなった。
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