数年前のミサで小林神父が、神山復生病院のことを語ったことがある。 説教の最後に神山復生病院の信徒が旧御聖堂で歌った「神のはからいは限りなく」の録音がマイクを通して流された。その時、西千葉教会の御聖堂は水を打ったように静まりかえり、皆が深く、ただ、ただ泣いた。 誰もが涙の流れるのにまかせた。
さらに今年帰天された五井教会の岩崎神父が、昨年西千葉教会のミサへ来られたことがあって井深八重の生涯を教えてくれた。
いつの日にか必ず神山復生病院を訪れたい。そのように願っていたから、御殿場への訪問はまたとない機会と感じた。
カトリック御殿場教会からカーナビで神山復生病院に照準をあわせ向う。
それは花咲き乱れる美しいところだった。
病院に併設されている御聖堂の中で祈っていた長女と私の前に事務局長のシスター小嶋が現れ、日曜日は休館日であったにもかかわらず私達親子を国の登録文化財である「復生記念館」へと導いてくれた。
明治20年、日本人でさえ救いの手を差し伸べることのなかったハンセン病患者をフランス人カトリック神父が救済した。
神父が宣教のために通った道の傍らにあった水車小屋の中にうめく声を聞いた。声の主はハンセン病の盲目の女性だった。
イエスが命を賭けて闇の中にいる人々に希望の光を灯したように、その人、パリミッションの「テストヴィード神父」は主に命じられるままにその声に従ったに過ぎないのだろう。
主の言葉に導かれるようにして激しく心を動かされた神父は日本初のハンセン病治療施設の創設に動く。
そして極貧といっても良い時代の岩下神父や井深八重の物語。 日本社会の中では非常識であったに違いないハンセン病患者への救済。これを神の奇跡と言わずして何を奇跡と呼ぼうか。
それが神山復生病院である。
現在では、日本医療機能評価病院でもある総合病院となった。
その中でも、神のもとで人間の尊厳ある死をむかえるための終末医療のホスピスが併設されていることは、既存の医療施設とは一線を画し特筆されるべきだろう。
病院のパンフレットにある次の言葉がその特色を表していると思う。
「・・・神のよって作られた人間としてその命を尊重し、その人らしく残された日を安らかに送ることが出来るように・・・」
誰もが目を背けたくなる「死」に対して人間の尊厳というまさに真正面から取り組もうとするその真摯な姿は、数々の先人のそれと同様で主の言葉に導かれてのものであろう。
私たちが復生病院を辞する時に、シスター小嶋は庭で自家用に栽培されている椎茸を幾つか摘んで私たちにくださった。帰宅してから私はその椎茸を焼いて味わった。
噛み締めるたびに涙があふれ、頬を伝わり、ポタポタと雫となって落ちて私はそれをとめることはできなかった。
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