2024年7月28日日曜日

「佐藤秀有さんを偲ぶ会」をきっかけに千葉県のフリークライミング黎明期を振り返る


1970年代、ミーハークライマーの極みだった私たちは当時の基準で技術的に国内最難とされていた黒部の奥鐘山西壁正面壁を登ることを目標に活動していました
しかしながら私たちが奥鐘山に一区切りをつけた頃には、日本登攀界はすでにヨセミテから押し寄せたフリークライミングの津波をかぶっていました
私たちもフリークライミング対応に追われ、すでにフリークライミングのルート開拓に取り組み始めていた1982年に千葉岳連に加盟しました
その時の千葉岳連理事長が佐藤秀有さんでした  千葉岳連加盟団体の市川山岳会のミニヤコンカ遭難のあった年です

加盟してすぐに山岳指導員の資格審査を受けましたが当時の千葉岳連はフリークライミングの津波が来たことすら実感しておらず、リードクライマーを肩がらみでビレイしていましたし、クライミングのために毎日トレーニングするという意識を共有できるメンバーもいませんでした
私も若かったので散々失礼な指摘をしたので、さすがに佐藤秀有さんも私の指摘にムッとしていました
1988年になって千葉県内のルート開拓をきっかけにして銚子を拠点とする山岳同人一同心との交流が始まり上田益孝や島田貞雄と登るようになりました
日山協のクライミング委員会(現在のJMSCAスポーツクライミング部の原型)の創立メンバーとして北山さん、山順さんと委員を務め、さらにジャック中根さんとジャパンカップなどのコンペのジャッジなどもするようになり、自分自身も腕試しがしたくて島田貞雄と一緒に大倉カップや1991年の代々木大会などいくつかのコンペに出場しました
その経験で得たノウハウを千葉岳連に持ち込んで千葉県民体育大会山岳競技のフリークライミング化を試みました
当時、千葉県民体育大会の山岳競技は鋸山の一角にあった「岳連岩場」というⅢ級~Ⅳ級の岩場で行っていました
この頃、佐藤秀有さんは千葉岳連の会長でした
千葉岳連をフリークライミング化しようとする私に佐藤秀有さんは
「暴れ馬の賀来をいつか飼いならしてみたい」
と言って千葉岳連のフリークライミング化を後押ししてくれました
2年に渡って千葉県内の天然の岩場で千葉岳連岩登り競技会という形で実施し、3年目に新松戸スポーツスクエアのビルの外壁で県民体育大会山岳競技として実施することができました
千葉岳連岩登り競技会として実施した1回目の優勝者は田村さんで、田村さんはその後船橋ロッキーを創業し、船橋ロッキーから日本を代表するクライマーが幾人も巣立っていきました
その後、国体の山岳競技自体がスポーツクライミング化されその予選と位置付けられる関東ブロック大会を千葉県総合スポーツセンターで実施するところまでたどり着きました
この関東ブロック大会は仮設の大規模なクライミングタワーを堀地さんにお願いして作ってもらったものでした
前後して野田市の体育館外壁にクライミングウォールが建設され、更に習志野市東部体育館に屋内壁と続きました
最近の佐藤秀有さんとは千葉岳連OB会の席で年に2回お会いすることが楽しみでした
昨年7月13日のOB会の暑気払いでは秀有さんが来なかったので残念に思いましたが、そのことをフェイスブックに書いたら、秀有さんから「参加出来ず残念です」とのリアクションがありました その日から2週間後の7月27日に他界されたのです
今日の「佐藤秀有さんを偲ぶ会」では久しぶりに春日さんや盛さんと再会することができました
佐藤秀有さん
大変お世話になりました
ご冥福をお祈り申し上げます


本日の朝練は8往復でした
標高差100m登って100m下ったことになります

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