2022年12月29日木曜日

没50年 花島秀雄君の墓参り


私の家から四街道小学校への通学路は大日から新生(あらおい)への坂道を下っていくと下志津新田の集落へと入っていく
大日や鹿放ケ丘は戦前は旧日本陸軍の演習場だったところで戦後になって陸軍の復員兵や満州引揚者等に土地が払い下げられ農業をなりわいとして住んだ だからもともとの地元住民はいない
一方で下志津新田は「新田」という名でわかるように江戸時代からの古い村である
その古い村を突っ切って金毘羅神社で左折すると民家は途絶え、村はずれに田んぼに囲まれた墓地がある 田んぼを突っ切る道の両側は土手になって春になるとつくしや野蒜が育ち、学校の帰り道に野蒜を食べたりしていた そこから四街道小学校はもう近い 現在私が小学校前の道を車で通過する頻度は週に1~2度といったところだろうか
この墓地に花島秀雄が眠っているから時々彼のことを思い出す

花島秀雄とは小学・中学・高校と同窓で、小学生の頃は下志津新田にある花島の家で頻繁に遊ぶ仲だった
小学校からの同級生の中で花島、砂田、俵、藤森、そして私が佐倉高校へ進学した
砂田と私は山岳部に入って山登りに熱中し、一方で花島と俵は体操部に打ち込んでいた
高校2年の冬休み 花島と俵は体操部で冬休み中にも部活動があって、1972年12月28日花島は祖父に買ってもらった新車「HONDAドリームCB500Four」で県道64号千葉臼井印西線を佐倉高校へ向かっていた
四街道ICの手前、現在のセブンイレブン四街道インター店付近でトラックと正面衝突 
亡くなったのは1972年の12月29日
今日はあれから50年という節目の日だった

午前中は朝食として越後の「へぎ蕎麦」を食べて段ボールを資源ごみとして搬出してから幸子さんと「麦」へ向かった
「麦」は大日小学校近くにあるうどん屋で今年いっぱいで閉店とのことで、しかも大日小学校の児童に縁があるという これは是非行こう!ということになったのである
11時に訪れるとすでに売り切れという
がっかりして帰宅し昼食は私が作って幸子さんと摂った
キューピーのサラダクラブに絹ごし豆腐、納豆、ゆで卵、ワカメを加え、それに天かすをトッピング これに8枚切りのトースト1枚とオニオンスープ お腹いっぱいになった
昼食後、ソファーでゆっくりしてからドライブレコーダーを取り付けた 取り付けたのは幸子さんが通勤に使っている日産マーチである 電源はシガーソケットではなくヒューズからとって、配線も表面には出さないというやり方である 車とヒューズボックスの構造を理解するのに戸惑ったが、1時間ほどで完了した

それが終わってから下志津新田の村はずれにある墓地へと向かった

墓参りを済ませ帰宅してみると土橋さんの捜索仲間である篠原さんから尾崎徹さんの訃報が入っていた
また一つ寂しくなった


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