2006年3月5日日曜日

仙台カテドラルでの四旬節第一主日



昨夜のうちに仙台へ入って一泊し、朝9時から仕事開始である。

カトリック教会情報ハンドブックによれば、仙台カテドラルである元寺小路教会の第一ミサが7:00とある。十分に時間があるので、さっそく行くことにして6:00にホテルを出る。

第一ミサのためか半数は御高齢のシスターである。仙台近郊の修道院からやってくるのだろう。ミサが終わって、駐車場の車を見るとシスターが運転しようとしているのを見た。シスターというと崇高なイメージが私の心の中にあり、日常生活が想像しにくいこともあって、新鮮に感じた。

さらに、ホテルへ向かって歩いていると前を別のシスターが二人で歩いている。二人はバス停でバスを待つために立ち止まった。バスで修道院まで帰るのだろう。
心の中で手を合わせた。

2006年3月4日土曜日

春の房総




長女と一緒に、先週に引き続いて鋸山へやってきた。

午後から仙台へ出張しなければならないので、早めに行って早めに帰ってくることにする。
6:30四街道出発、8:00には浜金谷に到着し、コンビニで買ったお弁当で朝食。
とても天気が良い。風もほとんどなくおだやかだ。
8:45歩き始める。
今日は観月台から登り、石切り場跡を見学してから急な階段で稜線へ出て、地獄覗きの陽だまりで銀マットを敷いて湯を沸かし昼食。
春霞で、富士山もかすんで見える。双眼鏡で周囲の景色を見ていた長女が言う。
「おとうさん、あそこの海がすごくきれい。日本じゃないみたい。行って見たいな。行ける?」
確かに、見ると水が透き通っているのがわかる。予定では裏鋸を縦走して保田へ下るつもりだったが、変更して帰路は車力道(しゃりきみち)を利用して下山。
JR浜金谷駅に11:55帰着。さっそく鋸山の稜線から見えていた美しい海の広がる海岸を目指す。
そこは元名海岸だった。

2006年3月1日水曜日

灰の水曜日




灰の水曜日なので終業後、特急に乗って西千葉教会へ急ぐ。19時からのミサに与ろうというのである。
妻と次女は車で向かい、教会で合流する手はずになっている。

激しい雨の中で私達家族3人を含めて灰の水曜日最終の第三ミサに15名が集まった。

今日から四旬節。

2006年2月27日月曜日

あと少し


数日前から、大きく膨らんでいた指の水泡が少しづつ小さくなり始め、今では健常者と見た目にはさほど差異がないほどまでになった。
一見したところ、ドアに指を挟んだかのようにも見えるが、ここまで来るのが大変だった。

凍傷に気がついて山の中で指を口に含んでマッサージを続け携帯カイロで解凍した直後は、身をよじるような激痛。その後、指は空気を入れた風船のように腫れあがり、血管拡張剤による治療を開始した。当初は治癒の兆しが見られず、心配したが数日後に指の先端に大きな水泡が出来はじめた。

そして治療を継続すること一週間。
指の先端と爪の間から黄色い膿のような体液が出てきたりして、気をもませるが、なんとか快方へ向っている様子。
爪はだめなようで、まもなく脱落するものと思われる。ただし、爪の根元は健在なので1年ほどで生えそろうと予測される。

新潟出張


新潟に日帰り出張。

帰りの新幹線が長岡を通るときに、プレハブがたくさん見えた。
中越地震の仮設避難住宅であろうか。

新潟市内には雪はまったくなく、長岡から上越国境の山々に近づくにつれて雪が深くなる。地元の人に聞くと新潟市内には冬でも雪がたくさん積もることはないのだという。
知らなかった。

2006年2月26日日曜日

年間第八主日


朝から雨。 かなり激しく降る。
母と長女の三人で教会へ向かう。
昨年の枝の主日は大分へ帰省していたから中津市の古城教会で叔父伯母たちとミサに与り、枝をもらった。
約一年間家に飾り、今日教会に返す。教会ではこれを焼いて灰の水曜日に備える。
いよいよ四旬節だ。

ミサ後、厳律シトー会のガレットを教会で買おうとした長女・・・
ところが先月で販売を取りやめていた。
私はそのことを知っていたが、母と長女は知らなかったようで、とてもがっかりしていた。
このガレットは一般にはトラピストクッキーと呼ばれているもので厳律シトー会の修道院で作られているものだ。
西千葉教会で販売していたのは那須のトラピスチヌ修道院製のものである。
シンプルだが風味がよく、大変おいしく、子供達は幼い頃から教会の帰りの車の中で食べていたものだった。

午後から次女の英検が幕張であるので、妻と買い物をかねて幕張まで車で行く。 凍傷は治癒の方向へ向っているようだ。

2006年2月25日土曜日

房総の山





先週、行者小屋から美濃戸への夜道を長女と二人で歩きながら、「暖かい房総の山に行きたいね」などと話していた。
トリノオリンピックで昨日、荒川静香が女子フィギュアで金メダルをとって 世間では沸いている。私も早朝の中継を見た。

さて、
週末の天気予報では土曜日が晴れで日曜日が雨とのこと。
一人で四街道発7:25の電車に乗った。
登ったのは鋸山。鋸山に登ったと言う人は多いが、本当の鋸山山頂に足をしるした人はとても少ないと思う。
先週の登山で右薬指に凍傷を負っているので、血管拡張剤の点滴をすべきなのだが、今日は経口投薬。1992年の足の凍傷に比べれば、ずっと軽いものだが壊死が進行しないように養生は欠かせない。殊勝にも手袋をして歩く。

アプローチに車力道を使い、展望台から鋸岳を往復、下山に観月台コースを使った。
今年は寒いせいか、観月台公園には水仙が咲き乱れていた。
千葉で好日山荘へ寄ってモンベルのトレッキングパンツを買って帰った。

2006年2月16日木曜日

カトリック甲府教会



仕事で甲府へ行った。
勤務先のCさんとの待ち合わせは10:15だが、一時間以上前に到着して甲府の町の中を歩いた。
今年の冬は寒さ厳しい日が続いたが、今日は暖かい雨である。
15分ほど探して、カトリック甲府教会にたどり着くことができた。
落ち着いた、雰囲気のある教会である。
天使祝詞を唱え、典礼聖歌を歌った。

2006年2月11日土曜日

南総里見八犬伝




今日は妻と二人で南総里見八犬伝の舞台である富山へやってきた。

例年、1月末で盛りを終える水仙の花である。
しかし今冬は寒さ厳しく水仙の開花が遅れたようで、今が盛りとばかりに咲き誇っていた。

下山した富山町の民家で背黒いわしの干物と松前漬けを購入した。背黒いわしの干物は塩が足りず、まずかった。

札幌日帰り出張


昨日2月10日
羽田発9:00の便で札幌へ向い、最終便の21:35で帰ってきた。
羽田に到着したのは23:25。
札幌駅で走り、空港で走ると言う連続で一緒に行った同期の千葉さんと二人で、グロッキー。
自宅が鎌倉の千葉さんとは京急蒲田で分かれる。

稲毛まで妻に迎えに来てもらい深夜1:50に帰宅できた。

札幌は雪祭りの最中であったが、見物する余裕はなかった。

2006年2月5日日曜日

カトリック館山教会



今日は年間第五主日、カトリック館山教会までやってきた。

水仙の花を求めて




昨日、土曜日ながら仕事から帰って天気予報を見ていると日曜日の快晴を告げている。
妻に
「水仙の花でも見に行かないか」というと
ここのところ仕事三昧の私を妻は哀れに思ったのだろう。付き合ってくれるという。それではと言うことで小保田から水仙畑をぬいながら嵯峨山を往復し、下山後にカトリック館山教会のミサに与ろうという計画を立てた。

妻は子供たちの朝食を作り、食卓の上にラップをかけて並べて出発だ。時計を見ると7:00。
道も空いており順調に浜金谷までたどり着いた。いつも立ち寄るコンビニで朝食の弁当を買い求めた。コンビニの駐車場で食べ終わり弁当ガラをゴミ箱に捨てようかなと思っていたら、となりに四駆がとまってドアが開いた。顔を見合わせてお互いにびっくり仰天。
「あ、植草さん」
「おお、賀来さん」
千葉岳連理事長を務めていた千葉渓稜の植草勝久さんだった。
植草さんには同行者が二人いて、今日は取材で鋸岳の車力道へ行くと言う。
とにかく再会を喜び合う。

小保田には9:00に到着した。舗装された農道を沢に沿って進み大きな空き地に車を止めて歩き出した。今朝、家を出るときに寒暖計を見たら-4度だったから今冬一番の冷え込みとなったようである。
田んぼの水溜りにも氷がはっている。

それでも快晴の里山はのどかで陽だまりハイキングには絶好の日和である。農道のどん詰まりにある駐車スペースから水仙畑の中のあぜ道を拾うように歩いていく。今年は寒さが厳しいので2月になっても水仙の花は咲いていた。
背中にぽかぽかと太陽のぬくもりを感じながらゆっくりと歩いていく

2006年2月1日水曜日

恩師との再会

年に一度は高校時代の同級生と酒を飲む。

今年の新年会で木坂先生の話題がでた。木坂先生は1960年代後半から11年間佐倉高校の世界史を担当した先生である。
社会を見る目に目覚めつつある思春期の生徒に与えた木坂先生の影響は大きなものがあった。

今日、その木坂先生を囲んで政治家のT、役人のH、建築士のT、そして私の5人で食事をした。

木坂先生は広島大学を卒業して最初の赴任先が佐倉高校だった。
最初の年に、授業中一人の男子生徒が挙手をして立ち上がり「もっとちゃんとした授業をしてください」と言った。
これに対して先生は
「申し訳ない、ちゃんとした授業をします」とお答えになったというのだから真摯である。
そして猛烈に勉強したという。

2006年1月22日日曜日

雪の梨沢


木更津教会のミサが11時過ぎに終わってから、梨沢へ向う。
梨沢は千葉県内における唯一の沢登りの対象となるものである。特に1月は遡行後の稜線一帯に水仙が咲き、それは素晴らしいと聞く。

昨年の2月下旬に長女と遡行してその素晴らしさを堪能したが、残念ながら水仙の開花時期は終わっていた。
今年こそはと期待していたがあいにくの大雪である。
それでもひょっとしてと思いながら妻と二人で遡行した。

雪に覆われた梨沢は、南房総の谷とは思えぬほどの景観で、楽しい一日を過ごすことが出来た。

大雪




土曜日から降り始めた雪は、日曜日の夜半まで降り続き、数十年ぶりの大雪となった。

私が小学校5年生の時の2月か3月にものすごい雪が降ったことを思い出した。そのときには三日間降り続き、腰まで雪に埋もれたことを思い出す。

2006年1月15日日曜日

年間第二主日


ミサ曲は典207から210
入祭・・・キリストはぶどうの木
第一朗読(旧約書朗読)・・・サムエル記(サムエル上3.3b-10,19)
答唱詩編・・・典54
第二朗読(使徒書朗読)・・・使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント6.13C-15a,17-20)
アレルヤ唱・・・典271
福音朗読・・・ヨハネによる福音(ヨハネ1.41+17b)
奉納・・・典98
拝領・・・典156,イエスよ み国に(テゼ)
閉祭・・・こころをひらき

クリスマスの装いは先週まで、通常のミサが四旬節までつづく。

2006年1月14日土曜日

サムエル記の朗読練習


カトリック西千葉教会の明日の年間第二主日のミサで長女が第一朗読をする予定なので、その練習をする。
朗読箇所は旧約聖書サムエル記(サムエル上3.3b-10,19)
「主よお話ください。僕(しもべ)は聞いております」

最後に、私が司祭の役をしながら楽しく答唱詩編、アレルヤ唱などを歌った。
福音朗読部分は、私が幸田司教を手本にして読んだ。

ふと気がつくと時計は22時を回っており、一時間以上が経過していた。

オリエンタルカレー、オオ懐かしい

今日は、昼前から本格的な雨になって気温も高い。
梨沢を遡って水仙のお花畑を見に行こうと思っていたが、あきらめた。

先週、市長の高橋操とプライベートで呑んだ時に佐倉に出来たベイシアの話題が出た。高橋も行ったという。
夕方になって、母と妻の三人で見物に行った。

山で使える食料を探す楽しみがあって、スーパーマーケットの食料品売り場へ行くのは嫌いではない。今日もベイシアの食料品売り場の棚を一つ一つ見ていたら、懐かしい商品があった。

オリエンタルカレー

最近まったく見なくなったが、私が小学生だった頃には盛んにCMをテレビに流していた。
とても感動して、写真に撮った。

2006年1月13日金曜日

札幌は大雪




札幌へ出張していた。
雪が多く、気温も-6.3度。

勤務先のCさんとMさんと三人での札幌出張。
寒さで耳がちぎれるように痛い。

帰りの千歳空港でラーメンを食べる。
旭川ラーメンの「特一番」の醤油ラーメンを食したが、スープが抜群にうまい。
MさんはANA13:00の便で仙台へ、Cさんと私はANA13:30の便で東京へ帰った。

2006年1月2日月曜日

冬の雨




雨が降っているが、思い立って妻と臼井城址へいった。

ジョアン原主水はこの臼井城主原胤義の子として生まれた。臼井城は自宅から車で20分程度と近距離にあり城下の道は私にとっては地元の道である。

車がやっと一台走ることの出来る狭い坂道を上っていくとそれはあった。

2006年1月1日日曜日

神の母聖マリア


2006年1月1日 今日は神の母聖マリア

小岩教会の深夜ミサから帰宅して寝たのは3時だったので、起床したのは8時だった。

ワイシャツにネクタイを締めて濃紺のブレザーの上にカシミヤのコートを着て、四街道駅のホームにたった。田甫さんご夫妻と一緒になった。田甫さんは長女の代母であり我が家の子供たち三人ともが、お宅でピアノを習っていた。
道々歩きながら教会の話などしながら西千葉教会へとむかった。
小林神父による説教はローマ教皇ベネディクト16世の新年メッセージだった。その内容は人類の未来に対するものだった。
私は福音をきいた思いがした。

帰りがけに四街道駅のロータリーにある句碑が目にとまった。正岡子規の句である。

「棒杭や、四街道の冬木立」

42年ぶりに訪れるカトリック小岩教会




2006年元旦はカトリック小岩教会でむかえた。

私の家族は昭和33年(1958)の一月に大分から出てきた。住んだのは中目黒。教会は碑文谷教会へ行っていたというが、私の記憶にはまったく残っていない。
その後、一度中津へ帰り、改めて東京へ出てきたのが昭和35年(1960)だった。住んだのは小岩の鹿本小学校近くの長屋。最も近い教会はカトリック小岩教会だった。そのカトリック小岩教会に幼稚園が併設されていた。私は昭和36年にこのレジナ幼稚園に入園した。そして鹿本小学校へ入学し、初聖体を受けた。
この頃は食事の前に必ずお祈りをしていたし、寝る前にもお祈りをしていた。この頃の祈りはすべて文語文だったから、意味はわからなかったが、呪文のように覚えたのである。近年口語体に改められた祈りは、覚えることが出来ていないが、文語体による使徒信条、主祷文、天使祝詞は今でもよどみなくいつでも唱えることが出来る。
そんな小岩教会の司祭は青山神父だった。

ある日のミサで、私はなんともウキウキしてきて「おてもやん」を大声で歌ってしまったのである。当時は女性と男性ではミサで座る場所が分かれていた。私は父と並んで座っていた。
ミサが終わると「おてもやん」を歌うことをやめさせなかった父に母は文句を言っていた。そうしたところ青山神父がやってきてニコニコしながら私の頭をなで「元気が良かったね」といった。

日曜学校に通ったり、ミサ使えをしたのも小岩教会だった。

昭和39年(1964)、私達家族は四街道へ引越し、カトリック西千葉教会へ転入した。

その小岩教会へ妻と息子の三人で行くことにした。場所ははっきりと覚えていた。迷わずにまっすぐ行くことが出来た。
御聖堂とマリア像は昔のままだった。
レジナ幼稚園児であった頃、帰りには必ずマリア像のところまで行って、手を合わせるように指導されていた。
そのマリア像がそのまま残っていた。
おてもやんを歌った御聖堂も内装は変化していたが告解部屋もそのままだった。深夜零時のミサにもかかわらず多くの信者が集まっていた。
まさに42年ぶりの小岩教会でのミサだった。

2005年12月26日月曜日

私たちの司教ヤコブ幸田和生


ミサの中で「私たちの教皇ヨハネパウロ二世、私たちの司教白柳誠一」という言葉をしばらく聴き、やがて「私たちの教皇ヨハネパウロ二世、私たちの司教ペトロ岡田武夫」となった。
次に、「私たちの教皇ヨハネパウロ二世、私たちの司教ペトロ岡田武夫、ヤコブ幸田和生」となったのが今年の2月だった。
5月からのミサでは「私たちの教皇ベネディクト16世、私たちの司教ペトロ岡田武夫、ヤコブ幸田和生」となった。

2005年とは私たちローマカトリック教会の一員にとって、意味深い一年だったのかもしれない。

東京ミレナリオ


評判の丸の内ミレナリオに行ってきた。

プロデュースした人間はさまざまな理屈をこねるかもしれないが、造形的なモチーフはあきらかにカトリック教会、もしくはギリシャ、ロシア正教会の聖堂にある「ステンドグラス」である。

2005年12月24日土曜日

カトリック西千葉教会のクリスマス



パイプオルガンのほかにバイオリンとフルートの伴奏で聖歌が歌われた。

19:00のミサの主な次第は次の通り。

入祭の歌--カトリック聖歌111番「しずけき」
開祭の歌--典礼聖歌305番「やみに住む民は光を見た」
栄光の賛歌--典礼聖歌204番
第一朗読--イザヤの預言9.1-6
答唱詩編--典礼聖歌148番「とおく地の果てまで」
第二朗読--使徒パウロのテトスへの手紙2.11-14
アレルヤ唱
ルカによる福音2.1-14
説教
使徒信条
共同祈願
奉納の歌--カトリック聖歌113番「きたれ友よ」
感謝の賛歌--典礼聖歌205番
主の祈り
平和の賛歌--典礼聖歌206番
聖体拝領の歌--キリスト教会賛美歌「まきびと」、カトリック聖歌121番「あめのみつかいの」
閉祭の歌--キリスト教会賛美歌「もろびとこぞりて」

2005年12月23日金曜日

明日はクリスマス

久しぶりに冬らしい冬をむかえた日本列島。

次女が吹奏楽の部活で佐倉高校へ行くと言うので、車で送った。車の中で次女に電話をさせた。私の妹の静子にだ。
「クリスマス、一緒に教会へ行こうってお父さんが言ってるの」

帰宅してからしばらくの間は本などをよんで過ごし、昼食後にホームセンターへ言ってDV用のケーブルを購入して、昔の8mmビデオのダビングを始めた。

1960年代後半から8mmフィルムによるムービー撮影を始めた私は、時代の変遷と共にVTRへと移行し、撮りためたビデオテープもかなりの数に及ぶ。
これをDVDへダビングしようということで今回機材を買い揃えたのだ。ダビングしながらついつい映像を見てしまう。
亡くなった父や、叔父や伯母、そして小さい頃の子供たち。何時間もテレビの前に釘付けになってしまった。

明日はクリスマス。
キリスト教の暦では、一日は日没に始まり、日没に終わるから、明日の日没からクリスマスだが、浮かれている場合ではないようにも思う。

2005年12月18日日曜日

強い冬型の気圧配置


今日は、待降節第四主日

西千葉教会では洗礼式があった。
大人8人子供6人、これを多いと感じるか少ないと感じるか。

ここのところ各地の教会を訪れて少ない信徒で信仰を守り、教会を維持していく姿を見てしまった私は、信徒数1,500名を抱える西千葉教会がいかに恵まれているかを思い知った。

来週は降誕祭。
みなで御聖堂と信徒会館を大掃除した。

2005年12月15日木曜日

東北のキリシタン殉教地をゆく




あわただしい仙台出張から先程帰宅。

昨夜遅くに仙台入りし、夜のうちに勤務先のCさんとは翌朝8時30分にホテルのフロントで待ち合わせる約束をして、今朝は7時にホテルを出発した。

目指すは広瀬川の河原にあると言う殉教地である。少なくとも普通の人に比べれば健脚とうぬぼれている私だったから、徒歩で出発した。
歩き始めてしばらく行くと、とあるビルにある気温を示す電光掲示板が-4℃を示しているのに気がついた。相当冷え込んでいるようだ。
しばらくして徒歩で行くのは無謀だと言うことに気がつき、タクシーに乗る。
西公園で降車したが、公園の敷地は広大で広瀬川の位置も定かではない。困り果てていると交番があったので尋ねてみると、意外にも近距離であった。
仙台大橋のたもとから右へ降りる階段を行くと、それはあった。 思いのほか立派な記念碑があり駆け寄って喜ぶ。
小さく祈ってから、広瀬川の河原へ降り、殉教現場である仙台大橋の下に立った。
広瀬川河畔の琵琶首刑罰場におけるキリシタン処刑は1624年2月1日から始まった。中には斬首されたものもあったが、その多くが水籠に入れられ凍死したものだった。
ロザリオの祈りの後にテゼの歌「主こそまことの救い」を謳った。

今回の私の巡礼の道しるべとなったのは高木一雄氏による「東北のキリシタン殉教地をゆく」である。

2005年12月11日日曜日

テゼ


12月に入って急に寒くなったように思う。近郊のアイスクライミングのゲレンデではすでに登攀可能なところもあるようだ。今年も行ってみたいものだ。

今日は待降節第三主日。
女子パウロ会のシスターが来られて、クリスマス用品などを販売。
教会の庭で2006年用の祈りの手引きなどを購入。とても寒いので、シスターは手がかじかんで品物を紙袋に入れることができなかった。

これとは別に先週、女子パウロ会のCDを購入した。
テゼの歌。テゼ共同体の歌である。
一年ほど前に西千葉教会の別冊聖歌集が新しくなり、その中にテゼの歌が入っている。短い祈りのフレーズを繰り返し歌う。短いフレーズだが旋律も美しく祈りの言葉も美しい。
先週の金曜日、勤め帰りに四谷まで行って、サンパウロで見つけて買ってきたのである。
静かに聴いていると長女が言う。
「WYDケルンで、いつも歌ったよ。フルートとギターの伴奏で」
「いいなぁ、どういうところで歌ったの、教会の中?」
「いつも、どこでも。バスの中とか朝の祈りのときとか」
「お父さんも行きたかったなぁ」

本当にしみじみ行きたかった。

カトリック、プロテスタントの教派を超えたブラザー・ロジェは長女がWYDケルン大会に参加している8月16日夜、帰天された。